楞厳経には、一切の世間における生死の相続について説かれています。生は順習に従い、死は変流に従う。臨終の際、未だ暖触を捨てず、一生の善悪が同時に頓現する。死は逆、生は順で、二つの習いが相交わる。ここで言う「臨終の際未だ暖触を捨てず」とは、「臨」は接近して未だ過ぎ去らない意味、つまり未だ死んでいない状態を指します。未だ死んでいない以上、少なくとも意識と意根が存在しています。仏が「未だ暖触を捨てず」と説かれるのは、暖触が残っており、暖触の覚受があることを意味し、身識も存在します。この時、四大は未だ分解しておらず、あるいは分解が始まったばかりで、色身の一切の覚受が存在し、感知可能で、六識も未だ滅していません。この時の感覚はどうか? 仏は衆生の四大分解を生きた亀の甲羅を剥がされるようだと喩えられます。その苦痛と痛みはどれほどのものか?
この時感知がある以上、意識は滅しておらず、独頭意識も現前します。独頭意識はこの時何をするか? 専ら如来蔵から発せられる情報を受け取り、如来蔵がこの世で造作した一切の善悪業行を、映画のように、かつ高速再生で一瞬にして映写し尽くします。如来蔵の導出速度は極めて速く、意識にとっては急速な回想の如く、独頭意識が考える余地もなくただ受け入れるのみです。やがて意識は直ちに、自らがこれらの業行に従って何処へ向かうかを悟りますが、既に傍らの人に伝えることはできません。
臨終の際、意識は多少朦朧としていますが、如来蔵が強制的に与える映像の内容に対し、依然として極めて鮮明に了別し、明瞭に判断し、自らがどの道で報いを受けるかを知ります。誰かに因果応報の理を説かれる必要は全くありません。
臨終の意識と意根は後世の果報を受け入れざるを得ません。これが業力、一生の業行の力です。意識の反抗も意根の反抗も許されず、二者共に業力の安排と召喚に従順に従い、怨言もありません。中陰身において閻魔大王の審判を受けても、弁明や訴えをすることはないでしょう。なぜなら事実が明白に示されているからです。閻魔大王が調査取证する必要もなく、事実を前にして何を言えましょうか。従順に閻魔大王の安排に従い、運命の安排に従うのみです。運命は如何にして形成されるか? 命は我が造るもの、自ら造った業は当然自らが承受します。親や子も代わって承受することはできず、各人の業は各人が受けるのです。
人に知られざることを願うなら、自ら為さざるにしかず。一生の大小の業行は、如来蔵が事細かに記録しています。他の如来蔵も知り、意根は如来蔵に依って知ります。他人の意識が神通を得た時、自らの所思所行が完全に知れ渡ります。悪業は決して隠蔽できず、果報は自然に現れ、誰をも怨むことはできません。地獄三悪道も自らの如来蔵が悪業に基づいて現出させるもので、他人は地獄を現出させることはできません。故に自らの運命は完全に自己責任です。人が利己的であるなら、自らに責任を持ち、悪業を造作しないよう努めるべきです。このような利己主義を仏も賛同されます。智者たる者の利己です。
悪報の苦しみを避けるため、身口意の行いを厳しく管理すべきです。身行では何人をも損なわず、口行では不適切な言葉、人を傷つける言葉、特に三宝を誹謗する言葉を発してはなりません。表面的には人を傷つけるようでも、実は自らを傷つけ、千万倍の果報を受けることになります。一つの言葉で地獄に堕ち無量劫の苦しみを受けることもあり得ます。意には貪瞋痴を抱かず、思想を清浄に保つべきです。
これらの因果法則は仏が制定創造したものではなく、菩薩や護法神が作ったものでも、怨親債主が作ったものでもなく、全て自らの如来蔵の所為です。怨むなら如来蔵を怨むべきですが、如来蔵が怨みを聞き入れるでしょうか?
悪業を造作する勇気ある者、悪業を気に留めない者、安易に悪業を造る者は、皆無智の愚者です。愚かさが増すほど大胆になります。愚者は結果を考えず、果報を知らず恐れず、無明煩悩に従うことで心の安らぎを得ます。悪業は一時の快楽のため、将来の苦しみを顧みず、智力も定力も不足しているため自制できません。因果を説くと煩悩の重い者は聞きたがらず、作り話だと否定しますが、不信であろうと果報は現れます。
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