いわゆる盗みとは「与えられざるものを取る」ことですが、仏法においては戒律を除き、戒を受けていない者が読んで学ぶことを許されないもの以外、仏の説かれたすべての教えは衆生のために説かれたものであり、衆生に公開されています。衆生が仏法を学ぶことに「与えられざるものを取る」ということは存在しません。仏陀は衆生のために法を説き、衆生が無条件で、いかなる対価も求めずに仏法を学べるようにされたのです。仏陀の心は私心なく、ただひたすらに衆生が生死の苦悩から解脱することを願っておられるため、そもそも「与えられざるものを取る」という概念が存在しないのです。
たとえ外道の者であっても自由に仏法を読み学ぶことができます。たとえ外道が欠点を探し誹謗する目的であったとしても、経典を読んで難点を探すことは仏法を盗むことには当たりません。肝要なのは、仏陀の心が広大で、一切を衆生のために、個人の利益のためにではなく説かれた点にあります。もし仏陀が衆生の自由な学法を許さず、前提条件を設けていたならば、条件を満たさずに学ぶことが盗法となったでしょう。しかし仏教にはそのような規則はなく、衆生が正々堂々と学び修行することを奨励しているのです。
戒律に関しては、相応しい戒を受けていない者が学ぶことは許されません。その理由は、第一に衆生が内容を知って戒を受けるのをためらう恐れがあり、第二に戒を受けずに学んだ者が戒律を盾に受戒者を非難する危険があるためです。受戒者は未受戒者より上位にあり、仏教では下位者が上位者を指弾することを禁じています。たとえ事実があったとしても、在家者が出家者を非難することは許されず、過失や罪業を招きます。特に出家者の戒律については、在家者が決して目を通してはならず、ましてや出家者の行いを論じるなど以ての外です。たとえ出家者が戒を犯したとしても、在家者が非難すれば因果を受け、罪を負うことになります。事実に基づく出家者への非難でさえも僧伽誹謗に該当し、根拠ある誹謗となります。事実無根の場合はさらに罪業が重く、因果も深刻です。
盗法の特例として、盗心をもって仏法をそのまま外道に移し、外道の教えとして改変する場合が挙げられます。仏法の所有者が変更され、自らのものと称する時、初めて盗法となります。他人の物を自宅に持ち帰り自己の物とするように、仏法が外道法と名称を変えなければ盗法とは見なされません。もし外道が故意に仏法を盗み、外道のため仏法を改変した場合、盗法罪が成立するのです。
3
+1