外相分とは、有縁の衆生が共同で受用する色法であり、宇宙器世間に相当します。宇宙器世間は、各々の有縁衆生の如来蔵が共同で四大種を出力し、四大を形成した後、全ての如来蔵が共同でこの四大を用いて宇宙器世間を構築したものです。この部分は衆生各自の如来蔵のみが接触可能であり、色法同士は相互に接触できますが、七識心は触れることができません。従って、衆生は外相分の真の姿を知ることも、自らの黒匣子(こくごうし)に映る影像である内相分との差異を認識することも絶対に不可能です。
科学機器を用いて宇宙を測定する際、科学の発展如何に関わらず、科学機器は必ず外相分と接触し、内相分とは接触しません。科学機器自体も物質的色法であり、外相分の色塵と同様に、共業の衆生の如来蔵が四大種によって創造したもので、如来蔵のみが接触可能な外相分に属するからです。しかし人間が外相分を観測しようとする時、機器と色塵は共に内相分へと転換され、後頭部において外相分の影像が生成されます。これを内相分と呼び、人間はこの虚構の相分のみを観測可能です。人間が観測・研究しなければ内相分は存在せず、外相分のみが存在しますが、一旦観測すれば変化した内相分が生じ、外相分に類似しながらも差異を有するものとなります。故に、物質的色法は人間の観測の有無によって異なる相を呈すると言われる所以です。
科学が如何に発展しようとも、人類が外相分に無限に接近し得るという事実は存在しません。勝義根を使用する限り、人間の見る一切法は勝義根の黒匣子内の法に過ぎず、黒匣子外の法を肉眼で見ることはできないからです。この理が成立する所以は如来蔵の規則・法則によるもので、仏といえどもこれを干渉することはできません。ただし仏は無量の神通力を有し、勝義根を随意に使用・不使用できる自在の境地に達していますが、我々凡夫にはそのようなことは不可能です。
外相分は絶対的な存在であり、人間の意志によって変化することなく、如来蔵が顕現した最も原初的で根本的な色法です。しかし衆生が接触するやいなや、色法はもはや原初的でも根本的でもなく、最初の本質境ではなくなります。個人の八識が参与することで色法は変化し、しかもそれは自心における色法の変化であるため、一切法は自心であるという説が成立するのです。では外相分の原初的色法は変化し得るのでしょうか。これも可能であり、個人の業が融合することで受用する法には一定の変化が生じます。ただしこれらの変化が感知可能か否かは、その顕著さに差異があるに過ぎません。
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