定力が不足していると、文章を読むことは走馬灯を見るかのように流し読みするだけである。定力が十分な時、心の中の認識度は並大抵ではなく、心臓を震わせ、五臓六腑を揺るがすほどで、非常に非凡な感覚を覚える。中には文章を走馬灯のように一読しただけで、細やかに思惟せずに軽々しく否定する者がいるが、結局は自ら誤りを犯すことになる。どこに誤りがあるのか?定力がなく、思惟観行ができず、心があまりにも浅はかであるため、導きがあっても依然として観行できず、智慧は次第に向上せず、日々増進することはない。前世の善根が不足している者は、いかなる教えを見ても驚くことはなく、淡々と通り過ぎてしまい、あたかも真に理解したかのように振る舞う。
定力がある時、思惟が細やかになって初めて心が動かされる。これを深く感得すると言う。我が古来の華夏文化の内包がいかに豊かであるかを見よ。用語はいかに正確であり、身心の状態をことごとく明瞭に、透徹して描写し得ている。一定の科学的根拠、生理学的根拠があり、仏法は孤立したものではない。ただ大衆に智慧があってありのままに認識できるかどうかである。「深く感得する」という「深く」とは、意根の深層まで入り込むことであり、浅薄な表面意識の思惟ではない。それゆえに感得が生まれる。一般的な思惟では感銘を覚えることはなく、感慨も起こらず、ましてや感無量の思いに駆られることは決してない。
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