陽炎観を証得した時、あらゆる境界に遭遇しても、一切思惟することなく、即座に通り過ぎる。真に我見を断じた時、禅定力が充足していると、やはり思惟せず、直接に境界を空(くう)へと通り抜け、これらのいわゆる境界をまともに見ることはない。一方、解悟の者は禅定を欠き、慢心が加わるため、境界に遭遇した際には、凡夫よりも煩悩が重いかもしれない。
ここに見えるように、意根の証得と意識の解得は、同日の談ではない。禅定ある者と無き者の差は極めて大きい。実修とは何を修めるか、我々は知るべきである。真にいかなる法を証得し、禅定力を持つ状況では、いかなる問題も問題ではなく、いかなる事も事柄ではない。一旦禅定を失えば、もはや言うに及ばず、大水は堤防を決壊させ、煩悩の堤防を押し流すかもしれない。
修養の有無は、事柄によって見るべきであり、口先の言葉によって見るべきではない。言葉は高尚に聞こえても、行動は卑劣であるかもしれず、その差はこれほど大きい。言語文字が意識と相応するのは修行を代表せず、行為が直接意根と相応するこそが修行を代表する。故に修行とは意根を修めることであり、意根に至らない修養は真の修行ではない。あらゆる知見は、少し大きい煩悩の前では、特に生死の前では無力であり、知見は根本的に煩悩に抵抗できず、まして生死に抵抗することはできない。
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