しかし本質境の不変は、ただ一時的な現象に過ぎず、遅かれ早かれ変化するものである。なぜなら本質境もまた因縁生・因縁滅の法であり、生滅変異の法であるからだ。因縁が変われば、本質境は必然的に変化する。因縁が変わらない状況下においても、衆生が本質境に注目し期待を抱くならば、意根の願求が加わり、本質境は必ず変化する。衆心が誠実に一丸となれば、必然的に本質境は衆人の心に従って転じ、さらには一人の有道の人の心にさえも従って転ずるのである。
例えば地球を挙げれば、人類が誕生する前は、生住異滅の存在ではあったが、当時の存在は変異が極めて緩やかで、地表の美味なる地肥は、多くの劫にわたって地球表面に浮かび、甘美で肥沃なまま減少せず薄れることもなかった。人類が地球に降誕するや、地肥を貪り求めたため、地肥は次第に薄れ少なくなり、ついには増長せず、最後には滅絶した。これは衆生の業力が干渉した結果である。滅絶後、人類は美味なる粳米を栽培し始めたが、最後には衆生の貪求が止まぬため、粳米は消失し、ついにはその名さえ尋ね求めることもできなくなった。衆生の業力はかくも甚大なるものである。
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