修行とは、まず色身五蘊の機能作用を否定し破った後、初めて五蘊の背後にある真人を見出すことが可能となります。色身がいかに実体なく主なき性質であるか。色身は四大より成り、四大に支配され操られています。四大を制御しようとしても容易ではなく、大変な労力を要する上、必ずしも制御できるものではありません。例えば夏の猛暑で全身汗だくとなり、湿疹が出る者もいます。これは火大水大地大の不調和によるもので、冷房で風を通せば今度は体が冷えて不調を来たします。これは風大の不調和であり、四大不調の色身は実に煩わしいものです。色身ある限り、四大は常にあなたを支配します。仏陀が四大を四つの毒蛇に譬えたように、これらは容易に扱えるものではなく、少しでも気を緩めれば毒蛇はあなたを侵します。このような自主性を全く持たぬ色身が、果たして真人と言えましょうか。真の我と言えましょうか。
生死を超えて滅びぬべき我とは、自由自在で自主性を具え、あらゆる毒にも侵されず、一切を主宰して一切に支配されぬ存在であるべきです。いったいどのような智者が、このような色身を我がものと認めましょうか。早急に自らの心よりこれを滅却し否定し、新たなる主君に帰依すべきです。
これほど明白な理が自心にて確認できないならば、修行に未だ不足あることを示します。いったい何が不足しているのか。福徳、智慧、禅定、戒律など、完成すべきものは速やかに一つずつ完成させ、再び怠惰に流れ延ばしにするべきではありません。
色身が我ならず五蘊が無我なる理が明らかになった時、自ら勇気をもってこれを引き受け、無始劫来の自我観念を更新転換すべきです。古きを去り新しきを迎え、全く新たなる姿となるべきです。しかしこの我の観念はあたかも固着したかの如く、如何に説いても動かず、一歩前進することさえ困難です。これが障りであり、あたかも山が眼前に立ち塞がるが如く、越え難いものです。この山を崩すには衆力の和合、自力と他力が必要です。自力とは戒力・定力・慧力・福徳力・善業力を含み、他力とは仏菩薩護法神の加護力、同参道友の推進力、その他善縁の力です。自力を主とし他力を補いとし、自力が具わって初めて他力も作用し得るのです。
譬えば人が荷車を坂道で押し進む際、前方に大石が立ち塞がり自力では越えられぬ時、如何に力を込めても動かぬことがあります。この時衆力の和合が必要となります。自力とは体力・毅力・巧力・決断力など、他力とは過去に結んだ善縁、培った善業により、縁ある人が通りかかり助力を申し出る場合です。二人でも動かねば更に第三者が加わり、三人の力で無事大石を越え進むことができます。
もし過去に善縁を結び人を助けず、福徳や善業の種を蒔かなければ、障りに遭遇した時孤立無援となり、外力の助けを得られません。通りすがる人さえ現れず、苦境を知る者もいないでしょう。仮に人が通りかかっても縁も福もなければ、手を差し伸べる者はいません。
仏道修行において福を修め善縁を結ぶことは極めて重要です。成仏の道には数多き助道者を要し、独力のみでは為し得ず、孤立無縁のまま如何にして三大阿僧祇劫の修行を渡り得ましょうか。人を助ける举手の労さえ惜しみ、福徳を積まず善縁を結ばず種を蒔かねば、独力では如何なる障りも越えられず、ただ嘆き悲しむのみです。自ら人を助けねば、如何にして天の助けを得られましょうか。
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