修行が意根に達した時、意根の無明が軽減され智慧が増長すれば根本を変えることができ、多くの世間法と出世間法を次第に円満に処理できるようになる。故に修法は必ず意根まで深く入り込まなければならない。意根は主導する識であり、身口意の行いを決定し、業種と果報を決定するからである。意根が了別する法は極めて多く、事が未発生あるいは発生直後の段階で、事前に主宰し決定を下し、対策を考え事柄を処理する。これにより我々は一切に対処する際に円融無碍となり、周囲の環境・人事・物理と次第に調和し、より多くの衆生を度脱できるようになる。
もし意根まで修行が至り無明が少しずつ減少すれば、貪瞋痴は徐々に淡薄化し、遂には意根が変化する。意根の貪瞋痴煩悩が減少淡薄化すると、夢境を通じて顕現する。例えば平常時、意根がある法への貪執を止めようとする時、相応する心の働きに考えと願望が生起すれば、如来蔵はこれに呼応して夢境に顕現させる。如何にして顕現するか。貪瞋痴は心の汚れを表し、心の汚れは物質色法の穢れた境界で表現される。心が清浄になり穢れが減少すれば、当人の置かれた環境が全て穢れに満ちた状態として現れる。外界が穢れれば穢れるほど、心から排除された煩悩が多かったことを示し、内心は以前より清浄になったことを意味する。境界は清浄でなくとも、却って心の清浄を引き立てるのである。
故に夢境はまた一個人の修行の程度を示し、貪瞋痴煩悩が軽減されたか、内心が次第に清浄になりつつあるかを表す。もちろん悟前と証果前のこの種の染汚排除は、証果後の貪瞋痴降伏・消除とは一定の差異が存在する。証果前における三十七道品の修行過程において、戒定慧の修学により煩悩は確かに一部分降伏され、心は以前より清浄になる。これは悟前及び証果前の戒定慧修学の結果である。さもなければ戒定慧と三十七道品の修学は基準に達せず、貪瞋痴の障りが依然深刻であれば、証果と明心を成就することはできない。
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