一切の法を参究する際、最初は末那識が意識の思考分析に協力し、意識が様々なデータや資料を収集する。意識が資料を比較的十分に収集し、末那識が利用するのに足る段階に至ると、意識は末那識の熟慮に協力し、末那識の加工・統合作業に協力し、末那識の審査・濾過作業に協力する。これにより末那識に多く思索させ、意識の活動を抑えることで、参究作業は速やかに完遂される。
意識の活発な思考を抑制し末那識の思量を増やすには、禅定を修める必要がある。禅定の中においてのみ末那識の専心参究が保証される。末那識は完全に一処に定まることはできないが、極めて少数の法に定まれば十分である。専心して参究すべき法義以外は、わずかに了別すればよく、自身の参究に影響を与えない。したがって座禅は禅定の中で行う必要があり、意識が情緒的な思考や解釈(情思意解)をしてはならない。末那識の思量性を多く動員し、その思量を充分かつ効果的に発揮させ、自ら如来蔵を証得すること——これが参禅の奥義である。よって末那識が法を証得しなければ明心して悟りを証することは不可能であり、同様に我見を断つことも不可能である。禅定の中で参禅する際は、意識の思考をあまり動員せず、末那識の思量性を多く動員するため、悟りを証しやすい。これが参禅参究の奥義である。
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