衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年11月16日    金曜日     第1開示 合計1016開示

いかにして意根の実証を確実にするか

我見を断つ際には、まず意識が意根にすべての証拠とデータを十分に提供し、その後、意識は思考を控え、作用を減らして、意根の心理活動の必要に合わせ、意根自身に思量と考量を委ね、自ら事実を検証させる。意根が事実がまだ不十分で、証拠が不足し、データが足りないと感じた場合、意識は再び思考観行を行い、データを収集して意根に渡す。意根は深く思量と考量を重ね、意識が傍らで絶えずデータ資料を補完することで、意根は継続的に加工し、思考を絶えず完成させ、ついに確固たる証拠に基づく結論を導き出し、証果に至る。処理すべき事柄が多い場合、意識が必ず禅定から出て六塵を了別しなければならないときでも、意根は密かに工夫を凝らし、行住坐臥において参究を離れず、夜の夢のあるなしにかかわらず用功を続けられる。意根が事態の重大さを実感したときは、寝食を忘れ、眠らず食さずに専念する決断を下す。なぜなら意根が精進しようとするとき、飲食などの活動は意根の専心思考に影響し、日常の些事に気を散らすため、五陰の他の活動を減らすことで自らの集中を保とうとするからである。睡眠時には意識の補助がなく、意根は十分なデータと材料を得られず、参究に着手できないため、意根は睡眠を取らず、意識が滅するのを許さないと決断する。

一切法の参究において、最初は意根が意識の思考分析に協力し、意識が各種データや資料を収集するのを補佐する。意識が資料を比較的十分に収集し、意根が利用するのに足りる段階に至ると、今度は意識が意根の深慮遠謀に協力し、意根の加工・統合作業を支え、意根の審査・濾過作業を補佐し、意根に多くの思索を費やさせ、意識の活動を抑えることで、参究作業は速やかに完成する。

意識の活発な思考を抑え、意根に多くの思量を行わせるためには、禅定を修める必要がある。禅定中においてのみ意根の専心参究が保証され、完全に一処に定まることはできなくとも、極少数の法に定まれば十分である。専心参究すべき法義以外は、わずかに了別するだけで自らの参究に影響を与えない。したがって観行は禅定中に行い、意識が情緒的な解釈に走らず、意根の思量性を多く動員し、意根の思量を充分に有効に発揮させ、自ら五蘊無我を証得すること——これが観行と参禅の奥義である。

よって意根が法を証しなければ、明心して悟りを証することは不可能であり、同様に我見を断つことも不可能である。禅定中に参禅観行する際、意識の思考動員は少なくし、意根の思量性の動員を多くすること——これが参禅観行の奥義である。

意識の協力や補助がなくとも、意根は法義を参究し思量できるが、要する時間が長くなるだけで、いつになるか分からない。ただし前提として、意識が思考の内容とデータを意根に渡し、意根が依拠すべき指針を得て初めて、思量を明らかにし、証得できるのである。例えば夜に問題を考え、解決しないまま眠りに就いた場合、一夜明けて目が覚めた途端に霊感が現れ、未解決だったその問題が突然理解できることがある。これは一夜中、意根が働き続け思量していた証左である。夜寝る前に意根に疑問を残しておくと、朝目覚めたときに答えを得る——このような経験を持つ者は少なくない。

また例えば、思考した問題がその場で解決されず、他のことに忙殺されているとき、表面的にはその件を忘れたように見え、意識はもはや考慮しなくなる。しかし不意のときに突然答えが頭に浮かぶことがある。これは意根が背後で黙々と思考を続け、ついに結果を導き出したためである。修行とはまさに意根を多く用いることであり、意根による修行こそ真の修行であり、一切の法を証得し、一切の智慧を獲得できるのである。

——生如法師の開示
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