あらゆる衆生は生生世世にわたって悪業を造り、その果報として六道輪廻を受ける。もし業果が消滅しなければ、六道輪廻は終息する日がなく、衆生は永遠に仏となることができない。しかし実際はそうではない。なぜ証果を得た後には三つの結びを断じ、永遠に三悪道に堕ちることがなくなるのか。証果以前には、無数の三悪道の業種がまだ現行せず、業果を受けていないが、これらの業種はどこへ消えたのか。衆生が悪業を造っても、仏は懺悔によって業を消すことを求め、悪報を受けずに済むと説かれる。ではこれらの悪業はどこへ行ったのか。もし因果が必ず実現するなら、いかなる衆生が成仏できようか。
一切の法は如来蔵を除き虚妄不実であり、夢の中の事物の如きものである。夢の中のものは目覚めれば消え去り、夢の中で造ったすべての行為は目覚めた後には責任を負う必要がなく、虚妄なものには業果がなく、目覚めた後には再び悪業を造らず、もはや顛倒しない。しかし夢の中では異なり、夢の中で業行を造れば果報を受ける。
我見を断じて証果を得る時は初めて夢から目覚める第一の機縁であり、明心すれば再び目覚め、如幻観を証得すればまた目覚め、陽炎観を証得し目覚め、如夢観を証得し目覚め、各法ごとに目覚める。初地に入り目覚め、二地に入り目覚め、ついに成仏の時に至って完全に夢から覚醒する。この時こそ徹底的な覚醒であり、以後再び夢に入ることなく、もはや夢幻は存在しない。では夢の中で造った悪業は依然として存在するか。夢の中の人事物は、目覚めた後も存在するか。すべて存在せず、消滅し、跡形もない。仏の心中は空々漠々として何物も存在せず、仏がどうして因果に応報すべきことがあろうか。皮が存在せずして毛のいずくにか附くべきか。業果の附くべき人事物がなければ、業果はどこに存在しよう。
仏が衆生に説法されるのは、我々が皆夢を見ていることを充分に認識させ、一切の法が夢中にあることを悟らせるためである。夢から出れば一切の法は存在せず、目覚めるだけで何事もなく、善事も悪事もない。仏法は迷いを破ることに他ならず、心中に迷いなければ即ち開悟であり、開悟すればもはや何事もない。
私は真実ではなく、あなたは真実ではなく、事は真実ではなく、理は真実ではない。これらの理を認識し証得すれば、なお真実の人事物が存在しようか。ない。いまだ何らかの果報があろうか。ない。果報もまた事理であり、虚妄不実である。目覚めればすべて消滅する。覚醒の一部分ごとに消滅し、徹底的に覚醒すれば一切の善悪業果が完全に消滅する。証果の時、小さな一部分を覚醒したのではないか。無我の理を初歩的に証得し、六根・六塵・六識が無く、三悪道および悪業と業果は六根六塵六識の中にあるのではないか。確かに存在するなら、もはやその事はなく、果報は小さな一部分消滅したのである。
もし法を証得する程度が非常に深く、理解した理が極めて深遠であれば、覚醒の程度もまた大きく、より多くの事理が不実であることを証得し、消滅する事理がより多く、悪業の消除もまた増大する。一旦覚醒開悟すれば、どこに真実の因果因果があろうか。どこに真実の我人衆生寿者があろうか。どこに善悪業行があろうか。これを証得すれば業種は一部分消滅する。
もし仏の如くに覚醒し、仏の如く一切法を認識すれば、一切の悪業業種は完全に消除され、いささかも悪業果報は残らない。しかし仏は衆生が再び悪業を造らぬよう、衆生のために悪業果報を示現し、衆生を警覚させる。これは衆生を救済するための演劇であり、仏が無量劫にわたって衆生を度化するのはすべて演劇である。仏は最良にして最も偉大な俳優であり、最高の導師である。なすところの一切は衆生の迷える心を目覚めさせ、衆生を覚醒させるためである。これ以外に仏にいかなる個人的私利があろうか。まったくなく、徹底的に無我である。
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