衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法師ウェブサイトロゴ

日常法話

2018年11月16日    金曜日     第2開示 合計1017開示

業果は消えるのか

衆生は生々世々に悪業を造り、その果報が六道輪廻である。もし業果が消えなければ、六道輪廻に終止符は打たれず、衆生は永遠に仏となることはできない。しかし実際はそうではない。なぜ証果を得た後には三結を断じ、永遠に三悪道に堕ちることがなくなるのか。証果を得る前には、まだ無数の三悪道の業種が現行せず、業果がまだ受報されていないが、これらの業種はどこへ行ったのか。衆生が悪業を造れば、仏は懺悔を通じて業を消すよう求め、それによって悪報を受けずに済むとされる。では、これらの悪業はどこへ行くのか。もし因果が必ず実現しなければならないなら、いったいどの衆生が仏となることができるのか。

一切の法は如来蔵を除いてすべて虚妄不実であり、夢の中の物のようである。夢の中のものは目覚めれば消え去り、夢の中で造った一切の行為は目覚めた後には一切責任を負う必要がなく、虚妄なものには業果は存在しない。そして目覚めた後には再び悪業を造らず、もはや顛倒することはない。しかし夢の中では事情が異なり、夢の中で業行を造れば果報を受けなければならない。

我見を断じて証果を得る時は、初めて夢から目覚めたのである。明心すれば再び目覚め、如幻観を証得すればまた目覚め、陽炎観を証得すれば目覚め、如梦観を証得すれば目覚め、あらゆる法ごとに目覚めるのである。初地に入れば目覚め、二地に入れば目覚め、仏となる時に至っては完全に夢から目覚める。この時こそ徹底的に覚醒し、以後永遠に夢に入らず、もはや夢の世界は存在しなくなる。では、夢の中で造った悪業はまだ存在するのか。夢の中の人事物は、目覚めた後も存在するのか。すべて存在せず、消え去り、まったく見えなくなる。仏の心中は空々として何物も存在せず、仏がどうして因果に報いようか、いかにして報いるというのか。皮が存在しなければ毛はどこに付着するのか。業果が付着すべき人事物理がなければ、業果はどこにあるのか。

仏が衆生のために説法するのは、私たちが皆夢を見ていることを十分に認識させ、一切の法が夢の中にあることを知らせるためである。夢から出れば一切の法は存在せず、目覚めるだけで何事もなくなり、善事も悪事も存在しない。仏法は迷いを破ることにほかならず、心中に迷いがなければそれが開悟であり、開悟すれば何事もなくなる。

私は実在せず、あなたも実在せず、事も実在せず、理も実在しない。これらの理を認識し、証得した後、なお実在する人事物理があるのか。ない。では果報があるのか。ない。果報もまた事理であり、虚妄不実であり、目覚めればすべて消え去る。一部分覚醒すれば一部分消え去り、徹底的に覚醒すれば一切の善悪業果がすべて消え去る。証果を得た時、一部分覚醒したのではないか。無我の理を初歩的に証得し、六根・六塵・六識が存在しないならば、三悪道および悪業と業果は六根六塵六識の中にあるのではないか。確かにそこにあるはずだが、もはやその事はなくなり、果報は一部分消え去ったのである。

もし法を証得する程度が非常に深く、理解する理が非常に深ければ、覚醒の程度も非常に大きくなり、より多くの事理が不実であることを証得し、消え去る事理も多くなり、悪業が消滅する部分もさらに多くなる。一旦覚醒開悟すれば、どこに実在する因果因果があるのか、どこに実在する我人衆生寿者があるのか、どこに善悪業行があるのかが分かる。これらを証得すれば、業種は一部分消え去る。

もし仏のように覚醒し、仏のように一切の法を認識するならば、一切の悪業業種がすべて消滅し、どこに少しでも悪業果報が残るのか。ない。しかし仏は衆生が再び悪業を造らないように、また衆生のために悪業果報を示現し、衆生を警覚させる。これは衆生を救済するための芝居であり、仏の無量劫にわたる衆生救済はすべて芝居である。仏は最高にして最も偉大な俳優であり、最良の導師であり、なすことすべては衆生の迷える心を呼び覚まし、衆生を覚醒させるためである。このほかに仏に個人的な私利私欲があろうか。まったくなく、徹底的に無我である。

——生如法師の開示
前へ前へ

いかにして意根の実証を確実にするか

次へ 次へ

どのように能取所取の空を観行して我見を断つか

ページトップへ戻る