すべての人々には業障があります。まず無明があり、無明によって不如法な業行を造作し、それによって障礙が生じるのです。どのような業行が、何を障礙するのでしょうか。どのような方面への障礙が現れるのでしょうか。誰に障礙があるのでしょうか。障礙の原理は何でしょうか。どうすれば障礙を除去できるのでしょうか。
いわゆる障礙とは、例えば私が禅定を修めようとしてもどうしても成就できず、毎回修行する際に人・事・物の妨げが現れること、あるいは心が極めて重い執着を起こしても制止する方法がないことです。福徳を修めようとしても修められず、実際の行動を起こすことができず、毎回決心して行動しようとする時に「やめておこう、後でまた考えればいい、こんなことをする必要はない」という念頭が生じて懈怠してしまうこと。毎回仏法を思惟観行しようとしても、頭の中が混乱し落ち着かず、手の付けようがなく、一節の文章も理解できないこと。善行をしようとする度に様々な妨げが現れ、常に成就できないこと。要するに全ての計画が実現できず、常に決心するものの全く役に立たず、微塵も変化をもたらせないこと。これら全ての妨げが即ち障礙であり、業障なのです。これは前世の自分が貪・瞋・痴の無明業行によって感得した心理的障礙と逆縁によるものです。
前世の悪業が業種となって、どうして今世の修行に影響を及ぼすのでしょうか。業障は因果応報とも言います。因果は相互に関連し、甲において悪業を造作し不如法な行為を行えば、甲において果報が現れ、甲事は成就しません。同様に、乙において不如理な業行を行えば、乙において現行の果報が現れ、乙事は成就しません。例えば前世で三宝を誹謗した場合、今世で仏法僧に出会っても歓喜心が生じず、三宝に親しもうとすれば遮障と抵抗が生じます。たとえ心でしっかり修行しようと思っても、白紙に黒字で書かれた経典も理解できず、仏法が心に入ってきません。三宝を誹謗した悪業が今世の修行を著しく阻害するのです。
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