阿頼耶識はただ一切の事物を変化させ、自らは変化しない。もし阿頼耶識も変化するならば、それは生住異滅の法となり、甚大な過失を招く。ここに疑問が生じる。阿頼耶識はいつ生じたのか、どのようにして生じたのか。それが生じる以前には一切の万物万法が存在せず、虚空すらなかったというなら、その状態とは如何なるものか。衆生の業種はどこに存在するのか。意根はどこにあるのか。もし阿頼耶識が滅するならば、どのように滅し、何によって滅し、滅した後には万法の種子はどうなるのか。衆生の果報はなお存在するのか。
阿頼耶識はまた万物の中に存在するのでもない。もしそうなら万物が滅した時、阿頼耶識もまた滅することになるのではないか。万物を細かく分割していけば、阿頼耶識を見出すことができるのか。決してそうではない。
一切の事物の生成から滅尽まで、四大種子の生滅変異の過程は全て阿頼耶識如来蔵が保持する結果である。一切法の中に阿頼耶識の運行の跡を見出すことができ、その痕跡とは七大種子によって形成される心法と色法であり、これらは全て阿頼耶識自身の中にある原質である。故に法を見る者は阿頼耶識を見るべきである。眼前に広がる青山に別法はなく、全体が即ち一つの真実の法界、不生不滅の阿頼耶識如来蔵である。一ミリも一微塵も如来蔵の外に存在することを許さず、全ては如来蔵心中の法であり、また如来蔵の体・相・用でもある。衆生は如来蔵の中に生きているが、実際には衆生も存在せず、全てが如来蔵である。いかなる法が如来蔵でないと言えようか。いかなるものが如来蔵の外に独存し得ようか。全てそうではない。
0
+1