能取は七識であり、所取は六塵の万法である。能取と所取の空を観察するには、定力が比較的良好な状況下でなければ観行思惟を行うことができない。前提条件は次の通りである:第一に、禅定が具足していること。第二に、五陰虚妄の道理を粗略に理解していること。その後、理解した内容に従って順を追って観行思惟を行い、能取である七識心の空性を観行し、明らかに徹底的に観察しなければならない。内心で六識の虚妄かつ非我なる性質を認め、所取である六塵の万法を明らかに徹底的に観察する必要があり、五陰の世間法を含め、その虚妄性、生滅性、変異性、不実性を観行しなければならない。
六塵の虚妄は観行しやすい。雑阿含経において、世尊は六塵の虚妄を如何に観行するかを教えられており、経文を読みながら六塵が如何に虚妄であるかを思惟し、一つ一つ順に思惟観行するのである。経文に沿って観じ、経文に沿って思惟し、思惟が透徹すれば、それらの道理を認めることができるようになる。思惟せず観行しなければ、意識はそれらの道理を表面的に知っているだけで何の役にも立たず、論理的思惟によって根拠や証拠を見出し、理論の正しさを証明できなければならない。観行が成就した時、内心は「ああ、そういうことか!」と言うであろう。そうして意根(末那識)が認めるのである。
観行には常に一定の過程があり、最終的に内心は「なるほど、そういうことだったのか!」と言う。この時こそ真に知ったのであり、これは意根の認可である。そうでなければ、それは意識心の表面的な知に過ぎず、意識の知は往々にして大した役には立たない。道理を口にする者は多いが、実際には自身の内心は認めておらず、それはこれらの道理を意根が理解せず、明らかでなく、究竟において何故かを知らないからである。意根が理解し、わきまえるためには、意識心がこれらの理論の内容を思惟観行しなければならず、観行の過程は即ち意根に黙化の内に影響を与え、意根に「これが事の真相であり、この道理であり、論拠は充分である」と教えるのである。意識が分析する一つ一つの内容は全て意根に伝わり、意根はこれらの内容を了知し、道理を明らかにすることができる。意識が観行せず思惟しなければ、意根は知ることができず、我見を断つことはできない。
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