衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
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仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年07月20日    月曜日     第1 回の開示 合計2478回の開示

黒い箱の中の錯覚――松明が火の輪に変わる

燃えているマッチの頭を見ると、ある種の受があります。もしその燃えるマッチの頭を素早く揺らせば、円形の火線が形成され、別の受が生じるでしょう。見る相が異なれば、感受もまた異なります。松明を見るのは一つの受であり、それを激しく振って火の輪を作れば、この受はより強烈で胸騒ぎするものに変わります。いずれの受であれ、それを観じて深く分析すれば、すべては虚驚に過ぎず、妄受にすぎないと悟るでしょう。何の根拠があるというのでしょうか。鏡に映った火に心をかき乱され、画面の中の危険に恐怖に震えるとは、いったいどこに実体があるというのでしょう。

外界にある燃えるマッチの頭は、どれほど速く揺らしても永遠に一点であり、一つのマッチ頭にすぎません。決して小さな火の輪を形成することはなく、まるで円形のトラックを走る一人の人間のように、どれほど速く走っても永遠に一人で走っているのであり、多数の同じ人間がトラックを囲んで円を描くことはありません。しかし観察者の視力に問題が生じ、人の走る速度についていけなくなると、視覚障害が発生します。先の人影が消えぬうちに後の人影が現れ、こうして次々と人影が現れ続けるため、多数の人間がトラックを一周して走っているように見えるのです。

外界のマッチ頭の微粒子が黒匣子に入る時、同様に単一のマッチ頭であります。外界のマッチ頭がどれほど速く揺れようとも、黒匣子内の一時点・一位置には内塵のマッチ頭が一つあるのみで、多数のマッチ頭が集まって円を形成することはありません。ではなぜ識心の見るところは火の輪なのでしょうか。これは残像現象であり、過去の影像がまだ識心に残っているうちに新しい影像が次々と現れ、前後の順序に従って火の輪を見ているかのようになるのです。たとえ一つのマッチ頭を見るにしても不実の見方であり、錯覚にすぎません。ましてや多数のマッチ頭が形成する小さな火の輪を見ることなど、なおさらのことです。

——生如法師の開示
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