衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年07月24日    金曜日     第2 回の開示 合計2488回の開示

意識体性略説(六四)

八、山の高さと水の深さは、高さと深さという形色と表色である。山の色彩の顕色があってこそ山の高さの形色が引き立ち、山の高さの形色があってこそ山体の色彩の範囲が定まる。水色があってこそ水深の表色が引き立ち、水深の表色があってこそ水量が定まる。顕色である五境の色と、形色・表色・無表色の法処は相互に緊密に結合し、一瞬も分離できない。そうでなければ、いずれの色も存在し顕現することはできない。よって外境には必ず法処が具わり、六境が完備しているのであって、外五境のみが存在し法処を伴わないということはあり得ず、法処を欠いた外五境は存在せず、想像上の産物に過ぎない。法処が後脳の勝義根において五境に依って変現するという説は何らの根拠もなく、全く成立しない。外境は必ず完備した六境相であり、如来蔵が最初に造り出される時、色彩等の顕色のみを単独に造り出し、形体も内実もない茫漠たる色彩のみが存在するはずがなく、世界は単純な色彩によって構成されるものではない。各種の物体にはそれぞれ形状と性状があり、これによってこそ多様に富んだ物質世間が成立するのである。例えば如来蔵が五陰身を造り出すに当たり、色身の色彩のみを造り出し、その高矮肥痩等の法処を他人の勝義根において別個に造り出すなどということは断じて不可能であり、いかなる者が空想しようとも、かかる人類や衆生相を空想し得るものではない。また例えば極楽世界の黄金の大地が、金色のみ存在し堅固性や広博性、境界を具えていないならば、いかにして黄金の地を歩むことができようか。如来蔵は鏡が像を映すが如く、鏡は外相の原貌に忠実である。原貌に長短大小高矮肥痩が存在しないのに、如来蔵が勝手に鏡面に長短方円大小高矮肥痩を映し出すことなどできようはずがなく、いかにしてそのような映し出しが可能となろうか。それでもなお如来蔵は鏡の如く像を映すと言えるのであろうか。

——生如法師の開示
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