衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年07月27日    月曜日     第2 回の開示 合計2494回の開示

衆生による色の見え方の違い

同じ色でも、衆生によって見え方が異なることは、色を見ることが錯覚であることを示しています。水に箸を差し込んだ時、色界の天人には決して曲がって見える現象が現れません。なぜなら色界の天人は太陽の上に住み、自ら光明を有しているため陽光を必要とせず、色を見る際に陽光の影響を受けないからです。陽光による照明を必要としないため、当然ながら箸が曲がって見える現象を目にすることはありません。欲界の天人も必ずしもこの曲がって見える現象を目にするとは限りません。なぜなら欲界の天人は脳の勝義根に依存せず、黒匣子の世界に生きておらず、またその福徳が広大であるが故に、天眼をもって色を見るからです。天眼は肉眼よりもはるかに優れており、見る一切の法は天界以下の衆生とは根本的に異なります。さらに、月は四天王天に位置し、太陽は忉利天にあります。忉利天より上の四層の天には日月が存在せず、この四層の天人たちも同様に日月の光明を必要とせず、天眼をもって色を見るため、人間とは根本的に異なるものを見ているのです。

例えば同じガンジス川を見ても、天人は瑠璃を見、人間は水を見、魚は宮殿と故郷を見、餓鬼は炎を見ます。これは福徳の違い、業の違い、眼の違いによるものです。天人が人を見る時、犬が人を見る時、牛が人を見る時、馬が人を見る時、ゴキブリが人を見る時、それぞれ見えるものは異なり、感じ方や考え方も異なるため、反応も変わってきます。たとえ人間同士でも、男性の視点から女性を見る場合と女性の視点から女性を見る場合では見え方が異なり、子供の視点から見る場合と老人の視点から見る場合でも違いがあります。同じ人間でも、個人の福徳や業障が異なるため、同じ物事に対しても見え方が違い、それ故に感受や考え方が異なり、反応が変わり、選択も変わってくるのです。そうすると、衆生の見るものに、いったいどのような基準や真実性があり得ましょうか。すべては虚妄で実体のないものなのです。

——生如法師の開示
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