衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年11月18日    日曜日     第3 回の開示 合計1023回の開示

事修と理修の違い

一切の法は事と理の二つに分けられる。事とは相のことであり、理とは如来蔵の理体である。事を論ずる際には、相の上から相の実有性を破らねばならず、この時は理如来蔵の角度から説いてはならない。そうすると、ある者は相こそ真実であると誤解し、執着を生じて心が束縛され、解脱できなくなる。

小乗の法は全て相の上から有を破るが、大乗の法は理と事の両面から修行する。理の上から相を破り、理を認めれば事は容易に成るが、相を廃することなく、理に執着して事を廃することもない。理と事を円融一体とし、いずれにも偏らないことが求められる。さもなくば仏法は成就しない。

究竟まで理と事が円融した境地に至ればそれが仏である。理と事の円融が未だ究竟でないのは地上の菩薩と等覚・妙覚の二覚である。明心後の菩薩はわずかに円融できるかもしれないが、観察力が備わらなければ全く円融できない。

証果も明心も得ていない者に、五陰十八界の法や世間の一切の法が不生不滅であると説けば、彼らはそれを真実と受け止め、これらの執着に誤りはなく何ら問題ないと考え、貪愛と執着を滅する方法を求めなくなる。かくして衆生の生死の問題は解決されない。

一切の法が真如であることは、地上の菩薩および仏の現量観行の結果である。凡夫は五陰十八界の生滅相から一歩一歩修行を積むべきであり、直接五陰十八界を不生不滅の真如として扱うことはできない。この理を現量観察できる者は誰もいない。

四禅八定は事修であり、相を修めることである。相には必ず生滅があり、不生滅の相は存在しない。第八識の空相を除いては、空相は無相ゆえに不生滅である。四禅八定における六識は相の上から見れば生滅変異し、第七識も同様に生滅変異する。生滅変異する法を論じ、相を修める際には生滅変異の相が存在しなければならない。この時に七つの識と四禅八定が全て不生滅であると説けば、不自然なものとなる。もし全てが不生滅で固定不変ならば、我々に修行すべきものは何もなく、既に完璧であることになる。

——生如法師の開示
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