問:意法を縁とし、意が増上縁となり、助因となる場合、意識の種子こそが生因であり、作意心所が意識の生起を決定するのであれば、なぜ意根が意識の生滅を主宰すると説かれるのでしょうか。
答:根塵が触れ合うことが六識生起の必要不可欠な条件です。意法を縁として意識が生じるとは、意根と法塵が触れ合うことを指し、これが第八識が意識を生じるための必要不可欠な条件です。縁とは条件を表し、前提を意味します。もし意根という根が存在せず、法塵と触れ合わなければ、第八識は意識を生じることができません。前提条件が整わない、つまり意識を生じる理由がないからです。これにより、第八識が意識や五識を生じるには必ず前提条件が必要であり、理由が存在することが示されます。第八識は無縁に六識を生じることはありません。第八識に我性がなく、自ら主張せず、何らかの法を操作せず、主宰をなさないからです。それは縁に随う心の働きであり、縁あれば法を生じ、縁なければ生じません。
また、いかなる法が生じる場合も、全て第八識によって生じます。第八識は種子を有し、種子を用いて生じるからです。種子のないものは生じ得ません。意識の識種子は意識を生じる一因、あるいは条件と呼べますが、種子自体には心も心所法もないため、種子単独でいかなる法も生じることはできません。第八識が自体中に含蔵する種子を用いて法を生じるのです。
さらに、作意心所法は識心ではなく、能動性を有さず、意識の生起を決定できません。意識の生起は、一つには意根の思心所によって決定され、もう一つは第八識の思心所によって決定されます。その後、第八識が意識を生じるのです。故に意識の生起には二つの重要な主宰者が存在します。一つは意根であり、意根が決定しなければ意識は生じ得ません。もう一つは第八識であり、第八識の思心所が決定しなければ意識は生じ得ません。そして第八識の思心所の決定は、意根の思心所の決定によって引き起こされます。意根の思心所が決定しなければ、第八識の思心所も決定しないのです。
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