意根は任運によって生じる識心であり、恒常に存在する。無余涅槃の時に至るまで滅することなく、無始劫より連綿として存続してきた。意根の出生を決定づける法もなければ、その滅去を決定づける法も存在しない。意根の生滅を主宰する存在がなく、その任運の働きを統御する者もないが故に、七識の中にあって王たる地位を占め、統領者としての役割を果たす。これに代わる統領者や首領は存在しない。
意識は統領者たり得ない。意識は日々生滅を繰り返し、自主性を持たず、その出生には条件を要する。意根の存在と法塵が必要であり、意根が法塵と接触し、身業・語業を造作する決定を下すことによって初めて意識は生起する。このような条件付きの存在である意識が、どうして主導権を掌握し得ようか。自らの生滅すら統御できず、発言に効力がなく、制御不能であるならば、いかにして意根や他の法を制御する能力を有し得よう。いったいどうして主導権を掌握できるというのか。
特に意識が顕現していない時、意識が極めて微弱な時、意識が思惟できない状況において、どうして主導権を発揮し得ようか。睡眠と覚醒の過程で、意識はどうしてこれを統御し得よう。深夜の熟睡中に家屋が炎上するような緊急事態が発生した際、意識はどうして覚醒して避難することを決定し得ようか。意識自体が存在しない状態において、なお主導権を有し得るというのか。昏迷状態において意識が完全に消失している時、どうして覚醒しようともがくことを決定し得よう。植物状態で意識がかすかに存するのみの状況で、どうして体位変換を決定し得よう。思考作用すら喪失している者が、どうして食事を摂ることを決定し、生存を継続するか生死を決断し得ようか。
意根は無記識ではあるが、自主的に善悪の業を造作することはできない。しかしこれは主導性の有無とは無関係である。大統領が自らプログラミングできなくとも、プログラマーに命令を下す権限を有するように、意根は身口業を直接造作せずとも、六識に指令を発する主導権を保持している。六識は意根に奉仕するために存在し、その機能を果たさない場合、意根は六識の出生を許容しない。これが六識の存在意義である。
2
+1