観想法門において、所観の対象は現前に観察できるものではなく、眼前に存在するものでもなく、自らの現前の智慧が到達し得ない境界である。故に現量の境界ではなく、聖教に依って想像し思索し、あるいは幻想を抱き、あるいは相似た境界相を比類して、自らが現前に縁取り得るものとし、見出し得るものとすることで、自らの現量智慧の境界となるのである。
いわゆる観想とは、観じつつ想うことであり、想いには想像と幻想の意味を含む。これは非量の方法を手始めとして用い、定慧が増長するに従い、非量の想像は次第に減じ、現量の成分が徐々に増大し、遂には完全に現量に至る。所観の対象が生き生きと自らの心中に、あるいは眼前に現出し、自らが殊勝なる独影境となり、自心は三昧の中に安住し、覚明が現前し、心地に光明が湧現して定慧等持するに至る。
例えば白骨観において、最初に自他を観行する際、色身が白骨の集まりとは見えず、生気溢れる肉体として現れる時、白骨は自らにとって非量である。故にただ想像に頼り、仏陀の教示に従い、脳中に精一杯構想し想像し、参考図を自他に照らし合わせる。時を経て定力が増強され、意識が次第に意根を薫染し牽引するに従い、意根は白骨に徐々に慣れ親しみ、意識の努力なく加工せずとも白骨の様相を呈し、心中に次第に白骨状が現れる。ある刹那に至り初禅定が具足し、観行慧も具足し、縁も具足する時、白骨は瞬時に心中に顕現し、明瞭に歴然として眼前に在るが如く、払い去り難きものとなる。これは純粋なる現量智慧の境界に至り、法眼清浄を得て身見我見を断じ、三果あるいは四果を証得するのである。
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