仏は『維摩経』において第八識菩提心について説かれました。諸入は会せず、会せざるものが菩提であると。六入を会せぬとは、六入を分別しないという意味でしょうか。五祖の衣鉢は誰が得たか?仏法を会せざる者が得た。この「会せぬ」とは、仏法の具体的な内実を知らず理解しないという意味であり、これが第八識菩提心を指します。
六入には眼入・耳入・鼻入・舌入・身入・意入が含まれ、外六入として色・声・香・味・触・法、内六入として眼勝義根・耳勝義根・鼻勝義根・舌勝義根・身勝義根・意根があります。外六入と内六入に依って生じる六識は、六根を知り理解し、六塵をも知り理解します。しかし第八識菩提心は六根を知らず、六根が何たるかを理解せず、六塵を知らず、六塵が何たるかを理解しません。
問:六根六塵を知らず理解しないとは、六根六塵を了別せず分別しないということでしょうか。
第八識には無明がなく、一切の法を縁じ、作意・触・受・想・思の一切の法を実の如く知り、一切の法を理解します。もし第八識が一切の法を知らず理解せず、六根六塵を知らず理解しないなら、いかにして刹那毎に六根六塵を執持し変化させることができるでしょうか。第八識もまた六根六塵に対して受・想・思を行い、択択を有し後続の造作をなすため、必然的に六根六塵を知り理解しています。故に如何に造作すべきかを必然的に知っているのです。ただ第八識は六根六塵の世俗的法相を知らず、世俗的内実を知りません。これらは第七識の知る所の内実です。第八識は何を知るのか。甚深なる唯識種智が無い時は第八識の知を観察できず、ただ第八識に問うほかありません。第八識には無明がなく、一切の法を分別すること明明白白にして絲毫も錯乱せず、七識のように往々にして分別が明らかでなく、択択が錯乱し造作が錯乱し果報が錯乱するようなことはありません。
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