知ることは菩提である。これは第八識の菩提に知性を備えていることを示す。既然知性を有するならば、了別性・分別性を具える。さもなくば如何にして知ることができようか。
衆生の心行を了えるとは、衆生の心行を了別し得ることを意味する。これは第八識が了別性を具え、衆生の心行と心念を知ることを示す。ここでいう衆生とは、第一に第八識が自ら執持する五蘊七識、すなわち親所縁縁として自ら変生し自ら縁する七識五蘊を指し、第二に第八識が非自変生・非自縁の疏所縁縁たる七識五蘊を指す。
第八識は一切法を縁じ、作意・触・受・想・思の一切法をなし、一切法を知る。親所縁縁であれ疏所縁縁であれ、全ては結局第八識に帰する。即ち第八識相互も縁じ合い、音信を通じ合うのである。仮に第八識に知り得ぬものがあれば、第八識は無明を具えることになり、解脱した存在でもなければ仏でもない。
故に我々七識が事を行えば、自己の第八識が知り種子を保存するのみならず、他の衆生の第八識もまた知り種子を保存する。
例え貴方が畜生を打ち殺した場合、貴方自身の第八識が全過程を証知し記録して種子を保存する。その畜生の第八識もまた証知し種子を保存する。傍らでこの事を見た畜生の第八識も同様に全過程を証知し種子を保存する。しかし将来種子の縁が熟する時、自己の第八識が貴方の果報を変現し、その畜生の第八識もまた保存した種子を出力して初めて果報が形成され、その畜生が逆に貴方を打ち殺すか害をなすのである。あるいは後世その畜生と出会わなくとも、この業縁が熟せば貴方は報いを受け、その畜生の五根を通じて病苦が現れるに過ぎない。頭の三尺上に神明ありと申すが、実は頭皮の上半尺に神明が存在し、自らと極めて近く、決して分離することはない。
1
+1