意根が成功裡に薫習されるためには、接触する境界法を自ら思量し、その思量が通達した上で、初めて信頼と確認を加え、信受した後に思想観念が転換し、この法によって転じられるのであります。而して意根が法を明瞭通透に思量し得るのは、必ず攀縁を減少させる前提の下、干渉が比較的少ない状況において、一定の集中力を以て初めて智慧による思量通達が可能となり、法が心に入るのでございます。故に意根の智慧は必ず禅定と関わり、禅定が深まるほど智慧は通透しますが、意識には必ずしも多くの禅定を要しません。
若し意根が薫染に成功していなければ、その思想観念は転換できず、無明を破り煩悩を断尽することも叶わず、依然として旧我のままとなります。仮に意識の掌握する理が強盛であれば、意根を降伏させ抑制することも可能ですが、一旦意識が不鮮明となれば意根を制御できず、意根の煩悩が現行してまいります。これは衆生が煩悩を断除する以前の段階に於いて、身口の戒めを犯さず守ることはできても、心意の戒めを守り犯さずという大乗の心地戒を厳格に、或いは自動的に守ることは叶わず、未だ菩薩の心地戒を持つことができない状態であります。これは心が転換していない故でございます。これらは衆生が仏法を学び修行する過程であり、この過程の長短は人によって異なり、衆生の善根福德によって定まるのであります。
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