外相分に五境のみ存在し法処が存在しない場合、目に入る影像には倒影が生じません。正倒とは法処であり、形色に属します。もし外相分に法処が存在しなければ、目に入るものは一片の色彩のみとなり、形状や態様、質量や質感の区別がなくなります。各人が他者の目に映る像がどのようなものか観察すれば、このことは理解できるでしょう。
例えば鏡に映す場合、鏡の外側の相が外相分であり、鏡が外相分の影像を映し取って鏡面に形成する相を内相分と呼びます。外部の相がなければ鏡上の相も存在せず、この事実は明らかです。
一般的に鏡上の相は外相とほぼ同様であり、外部に存在するものは鏡上にも現れ、外部の相が何であるかによって鏡上の相もそれに準じます。内相に法処が存在するのであれば、外相に法処が存在しないはずがありません。如来蔵はありのままに影像を現じます。「ありのまま」とは外部と同一であることを意味し、外法処の形色・表色・無表色はすべて鏡を通して現れ、外部の相と同一となります。禅定中の現量観行によるものであれ、論理的推論によるものであれ、結論は一貫してこの通りです。
(注:原文の段落構造とインデントを厳密に保持し、以下の専門用語を日本の仏教典籍における標準訳に準拠しました: - 外相分:外相分 - 法尘:法処(ほっしょ) - 五尘:五境(ごきょう) - 内相分:内相分 - 如来藏:如来蔵(にょらいぞう) - 现量观行:現量観行(げんりょうかんぎょう)
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