(一)原文:かくのごとく我聞けり。一時、仏は舎衛国祇樹給孤独園に住したまえり。その時、世尊は諸比丘に告げたまわく「もし取る所の法に随って味着が生じ、顧み念じて心を縛るならば、その心は駆け巡り、名色を追い求む。名色は六入処を縁とし、六入処は触を縁とし、触は受を縁とし、受は愛を縁とし、愛は取を縁とし、取は有を縁とし、有は生を縁とし、生は老病死憂悲悩苦を縁とす。かくのごとく純大苦聚は集起する」
釈:世尊は比丘たちに仰せになった「もしあなた方が執取する法に貪愛の心を生じ、これに沈溺し、絶えず追想し、顧み、期待して、心が過去に駆け込み、名色五陰を追い求めるならば。名色が生じた後には六入(六根)処が生じる。六入があれば触(六根と六塵の接触)が生じ、六根が六塵に触れれば受(感覚)が生じ、受があれば愛(渇愛)が生じ、愛があれば取(執着)が生じ、取があれば有(三界の存在)が生じ、有があれば五陰身が生じ、五陰身が生じれば老病死憂悲苦悩が生じる。このように三界の生老病死の一切の苦悩が集起するのである」
何を「取る所の法」というか。眼は色を取リ、耳は声を取リ、鼻は香を取リ、舌は味を取リ、身は触塵を取リ、意根は法塵を取る。六根が六塵を取る時、これらの取る所の法に滋味あり意味ありと感じれば、貪愛が生じる。こうして自らを沈溺させて脱することができなくなる。自らが執取する法に対し貪愛して脱せず、心はこれに憧れ、念々に貪愛する法を追い、心は堅く縛られ、解脱と自在を得ず、生死に陥ることを免れない。
解脱した自在の心は、攀縁せず執取せず、心中に事無く、掛かり念ずる所無し。眼は色を見ても色相を取らず、耳は声を聞いても声相を取らず、鼻は香を嗅いでも香相を取らず、舌は味を嘗めても味相を取らず、身は触を覚えても触相を取らず、意は法を思っても法相を取らず、一切の法を用いて即ち捨て、心に顧み纏わること無し。駆け巡ることを「取」あるいは「執取」と謂う。心心念念に思い続け、得んと欲し、貪愛が取を生じ、取あるが故に生死の業となり、来世の生を免れず、大苦が集起する。苦業は全て自ら造り、自ら受ける。もし苦果を受けたく無ければ苦業を造作せず、このように苦を集めなければ苦果も無い。
衆生は生生世世に盲目的に五陰名色を追い求め、盲目的に世間の塵境を追い、止まって深く省察することを知らない。求める所に何の利益があるか、何の実法があるか、何に向かうか、どのような結果を招くかを考えず。また五陰生老病死の由来を考えず、繰り返す生来死去に何の意義があるか、如何にして五陰生老病死の苦を避けるか、五陰世間の外に更に求めるに値するものがあるかを知らない。
衆生が名色を追い求める時、名色には六入が生じる。外六入は内六根に入らんとする六塵であり、内六入は脳の勝義根中の六根である。外六入と六根が触れれば六識が生じて六塵を了別し、六識が六塵を認識すれば感受が生じ、六塵境界を感受すれば貪愛煩悩が生起する。貪心が生じれば必ず執取して已まず、永く自己のものとせんと欲する。執取した後は六塵と分離せず、生生世世に共に在り、未来世の生命は免れず不断に三界に現れ、老病死憂悲苦悩が随って現れ、大苦が集起する。かくの如く輪廻は止まず、実に苦しみに堪え難し。この生死の連鎖を十二因縁法と謂う。
1
+1