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日常法話

2018年11月26日    月曜日     第1開示 合計1037開示

話頭を観ずることは修定の方法である

問:話頭を見るのは、意識が見ているのか?それとも意根が見ているのか?もし意識が見ているのであれば、意根に伝えて、意根の心念を専一に向かわせ、攀縁をなくすか少なくし、次第に心を一処に制するようにします。意根にも了別が生じ、攀縁が減り、意識が専一になります。このとき、もし福德が具足し、因縁の機会がめぐってきて、ふと一念相応し、如来蔵こそが主人であると識得するならば、これは参禅して明心する道筋の図と言えるのでしょうか?

答:その通りです。話頭を見ることは修定の方法であり、修定の目的は意識を専一にさせ、精力を分散させず、専精に思惟参究させることにあります。しかし意識が了別する内容、思惟参究する内容は、すべて意根の指図によるものです。もし意根が話頭に縁するだけでなく、多くの法にも縁し、多くの法に興味を持つならば、意根は多くの法に対して作意と思を働かせ、如来蔵は意根が作意し思った多くの法を了別する意識を出生させます。すると意識はこれほど多くの内容を了別することになり、専一でいられるでしょうか?それは専一にはなれず、定を得ることもできません。

話頭を参じるというのは、目的は意根に話頭のみに縁させ、他の法への攀縁をなくすか少なくさせ、意識を心念専一の状態に到達させることにあります。修定は表面的には意識を修するように見えますが、実際には意根を降伏させ、意根にあまり多くの法に縁らせないことにあります。話頭を参じるというのは、できる限り意根を話頭に繋ぎ止めることであり、こうして意識は定まります。意識に定があれば、思惟は深く細やかになり、意識が意根を薫習するとき、このとき意根も話頭に対応し、話頭の思量 (manasikāra/manana) に参与します。もし話頭を参じることが意根まで深く入り、意根に習慣を養わせ、話頭を参じることを必ず行う仕事として扱わせるならば、睡眠状態にあっても意根は働き続け、夢の中でも意識に話頭を参じさせます。さらに、意識が行住坐臥のいずれにおいても話頭を参じるようにさせます。意識の定が深く、思惟が少ないときには、意根の作用が際立ち、暗中で話頭に縁し続けることが絶えず、因縁と時節が具足すれば、如来蔵を証得し、明心して証悟することができます。もし定が浅ければ、意識の作用が大きく、意根の参与が少ないか、あるいは参与しないことが多く、往々にして情思意解が多く、解悟の成分が多くなります。すべては意根によります。意識は縁生であり、意根は遍計所執性 (parikalpita-svabhāva) であり、如来蔵は無知無覚です。意根の遍計執によってその慧は塵に覆われ、顕発することができません。ただその心念を専一にさせ、攀縁しないか、あるいは少なく攀縁させることで、成就することができるのです。それゆえ修定は非常に重要なのです。

——生如法師の開示
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意根が自己の心理を表出する媒介

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