問:看話頭(かんなとう)は、意識が観ているのか、それとも意根(まなしき)が観ているのか。もし意識が観て、それを意根に伝え、意根の心念を専一にさせ、攀縁(はんえん)を止めるか減らすことで、次第に心を一処に制するならば、意根にも了別(りょうべつ)が生じ、攀縁が減り、意識が専一となる。この時、福徳が具わり、因縁が際会して、ふと一念相応し、如来蔵(にょらいぞう)こそが真の主人であると識得する。これは参禅明心の道筋と言えるか。
答:その通りである。看話頭は修定の方法であり、修定の目的は意識を専一にし、精力を分散させず、専精に思惟参究することにある。しかし、意識が了別する内容、思惟参究する内容は、全て意根が指図するものである。もし意根が話頭だけでなく多くの法に縁り、多くの法に関心を持つならば、意根は多くの法に作意(さい)し思惟し、如来蔵は意根が作意し思惟する多くの法を了別する意識を生じさせる。そうなれば、意識がこれほど多くの内容を了別しながら、専一できるだろうか。できず、専一は叶わず、定(じょう)も得られない。
参話頭の目的は、意根を話頭のみに縁らせ、他の法に攀縁させないか減らし、意識を心念専一に至らせることである。修定は表面は意識を修めるが、実際には意根を降伏させ、意根があまり多くの法に縁らないようにすることにある。参話頭とは、意根をできるだけ話頭に繋ぎ止めることで、そうすれば意識は定まる。意識に定があれば、思惟は深く細やかになり、意識が意根に熏習(くんじゅう)する時、この時意根も話頭に対応し、話頭を思量(しりょう)することに参与する。もし参話頭が意根に深く入り、意根に参話頭を必ず行う仕事として習慣づけさせれば、睡眠状態においても意根は働き、意識に夢の中でも参話頭させ、かつ意識を行住坐臥(ぎょうじゅうざが)においても参話頭させる。意識の定が深まり、思惟が少なくなると、意根の作用が突出し、密かに話頭に縁り続ける。因縁時節が具われば、如来蔵を証得し、明心して悟りを開くことができる。もし定が浅ければ、意識の作用が大きく、意根の参与が少ないか全くなく、往々にして情思意解(じょうしいげ)が多く、解悟(げご)の成分が多くなる。一切は皆、意根にある。意識は縁によって生じるものであり、意根は遍計所執(へんげしょしゅう)し、如来蔵は無知無覚である。意根の遍計所執はその慧(え)に塵を被せ、顕発することを得なくする。ただその心念を専一にし、攀縁を止めるか減らすことによってのみ成就できる。故に修定は非常に重要である。
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