問:弟子が色身の苦・空・無常・無我を思惟し、己れと他人の生老病死、飲食排泄など、自らの意志に由らない事柄を観じます。普段歩きながらの思惟は浅く、静かに思索にふける時、心身に喜びの覚受が生じ、新たな天地に入り、別の境界に至ったかのようです。この覚受は意根が少し熏習されたのでしょうか。
答:心底からの歓喜は全て意根より発し、色身と意識心に現れます。意根が熏習されることで身心に様々な変化が生じ、苦楽の覚受、不苦不楽の覚受もこれに含まれます。意根に新たな認識が生じ、思想観念が転換すれば、身心も転じます。五蘊無我その他の仏理を常に観察思惟すれば、意根と身心の変化は次第に拡大し、量変から質変を経て脱胎換骨し、鯉が竜門を躍る如く、凡夫から聖者へと転じるのです。
問:かつて運転中に思惟を続けていた時、当初は思考が乱れていましたが、突然雑念が消え、周囲の環境が全く未知のものに感じられました。道も判別できず、全てが新鮮に映り、空気さえ清浄に感じて道に迷いました。実際は熟知していた道路なのに、何故このような感覚が生じたのでしょうか。
答:心が仏法の思惟に専注すると、注意力が外界の塵境から離れます。意識が専心して仏法を思惟することで意根に更なる観感が生じ、内心に歓喜が湧けば、全てが愉しく映るのです。心が物を転じ、境が心に随って転ずる。これは修行過程で暫く現れる果報であり、最終結果ではありません。最終の境地は極めて殊勝です。このような修道の過程と積聚がなければ、いかなる者も自らに何らかの果報があるなどと語るべきでは無く、プラスチックの果実など誇るに足りません。
0
+1