衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年09月29日    火曜日     第5 回の開示 合計2661回の開示

雑阿含経(二八七)その二

(二)原文:いかなる法の存在によって名色が存在するのか。いかなる法を縁として名色が生じるのか。すなわち正思惟を行じ、如実に無間等の智慧が生起した。識の存在によって名色が有り、識を縁として名色が存在する。私がこのように思惟する時、識の所で止まりそれより先に進むことができない。すなわち識を縁として名色が生じ、名色を縁として六入処が生じ、六入処を縁として触が生じ、触を縁として受が生じ、受を縁として愛が生じ、愛を縁として取が生じ、取を縁として有が生じ、有を縁として生が生じ、生を縁として老死憂悲苦悩が生ず。かくの如く純粋なる大苦聚が集起する。

釈:仏は説かれた。私は再びこのような念を起こした。いかなる法が存在する縁故に名色が生じるのか。いかなる法を縁として名色が生じるのか。直ちに正思惟に入り、その後如実無間断の智慧が生起した。阿頼耶識が存在するが故に名色が生じ、阿頼耶識を縁として名色が存在することを知った。私がこのように思惟する時、阿頼耶識の所まで思惟し、それより先を思惟することができない。なぜならば前には何らの法も存在しないからである。すなわち阿頼耶識を生じさせる法は存在せず、あるいは阿頼耶識の出生を促す法は存在しない。阿頼耶識より前にはこれを超える法は存在しない。

これは生死の流れを逆に遡り根源を求めるもので、生死の源は阿頼耶識にある。阿頼耶識より生死が流転し、阿頼耶識を縁として名色が生じ、名色を縁として六入処が生じ、六入処を縁として触が生じ、触を縁として受が生じ、受を縁として愛が生じ、愛を縁として執取が生じ、執取を縁として三界有が生じ、有を縁として生が生じ、生を縁として老病死憂悲苦悩が生ず。かくして三界生死の大苦が集起するのである。なぜ阿頼耶識より生死が流転するのか。意根に無明があるため、五陰世間法を所有しようと欲し、阿頼耶識が意根の無明と業種に随順して、三界世間と五陰身を生じさせ、生死が其中に宛然として現れるからである。

十二因縁は無明を縁として生死流転の苦が生じる順縁起であり、十因縁は無明を滅して生死流転の苦を滅する逆縁起である。十二因縁の生死流転が存在する所以は、衆生の意根に無明が存在するためである。無明を縁として阿頼耶識は無明を媒介として一連の生死連鎖を生じ、衆生を苦海に推し進める。これに対し十因縁の逆生死流転は、老病死の現象から根源を遡って阿頼耶識に至り、もし阿頼耶識を証得し、阿頼耶識が如何にして五陰名色を生じさせるかを知れば、菩薩となり大乗修行に転入する。

もし十二因縁と十因縁の各分支を実証すれば、中乗聖人の辟支仏(独覚仏)となる。辟支仏たちは十因縁の各分支を実証しているが、阿頼耶識に関してはただ推量によって実有と認識するのみで、阿頼耶識を証得せず、阿頼耶識が何処で如何なる作用を起こすかを知らない。従って阿頼耶識の実証には属さず、この点が大乗菩薩の実証とは本質的な差異がある。

——生如法師の開示
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