人が無求となるとは、あらゆる法に執着せず、何かを求めようと策を弄さず、何事にも心を働かせない状態、これが無為であります。無為の心を持つ者は、いかなる手段をもってしても物事を謀ろうとせず、たとえ正当なことでも意図的に求め争うことはなく、ましてや不正なことや手段を用いるなど、決して行いません。このように、人と争わず、世と争わず、事とも争わず、争う心がなければ、奪う心や騙す心、盗む心などさらに起こらず、すべてに無求で縁に随って日を過ごすならば、この人の品性は極めて高く、その思想境涯も渾然として我を忘れた境地に至ります。
普通の人は一時的にこのような状態になるか、特定の事柄においてのみそうできるものです。もし常にこのように振る舞い、心の行いがいつも清浄で淡泊、無欲無求であれば、その人はもはや普通の人ではありません。それはどのような人か。必ずや我見を断った人、心中に我無く、さらに普通に我見を断った初果や二果の聖者ではなく、煩悩を断じた三果四果の聖者であります。もちろん阿羅漢たちの品性は皆高潔であり、その徳行は人中最上のもので、天をも超え、人天の師表となり、人天の応供となるのです。
もしこのような阿羅漢がさらに多くの衆生利益の行いをなし、心深く衆生を救済する誓願を抱き、常に衆生の苦を思い、深く衆生を苦難から解脱させたいと願うならば、この阿羅漢は菩薩摩訶薩、初地から八地に至る存在となります。もちろん八地以前の菩薩の心はまだ常に無為であり、自然のままに因縁に順応する状態を保つことはできず、また常に無欲無求でいることもできません。煩悩習気の影響が残っているからです。八地以上の菩薩の心こそが、時時刻刻に無為であり、任運自然に造作なく、心空にして法空、禅定は極めて深く、智慧も極めて深く、永遠に因縁に随順し、自然のままに衆生救済の事業を成就させ、我にも法にも執着しないのです。
ゆえに、あらゆる人の品性はその修証と関係があります。修証が高ければ高いほど、心は空しく、心が空しくなるほど器量は大きく、ますます無為となり、品性も高まります。修証の結果はすべて世俗法に現れ、その無為の心行も世俗法の中に表れ、衆生救済の過程に現れ、あらゆる事業の実践に現れます。ゆえに、人が修証があるかどうか、道を得ているかどうかは、智慧ある者がその身口意の行いを観察すれば明らかに判断できるのです。
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