衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年10月06日    火曜日     第2 回の開示 合計2680回の開示

雑阿含経(二八三)之二

(二)原文:人が木を植えるが如し。初めは小さく弱く、大切に守り安心させ、肥えた土を施し、時節に応じて灌漑し、寒暖を調節する。この因縁によって、その後その木は成長して大いなるを得る。かくの如く比丘よ、結びつけられた法に、味わい執着し養い育てれば、恩愛を生ず。愛は縁となり取を生じ、取は縁となり有を生じ、有は縁となり生を生じ、生は縁となり老病死憂悲苦悩を生ず。かくの如くかくの如く、純然たる大苦の集積となる。

釈:仏は説かれた。人々が苗木を植えるように、小さな木は植えられた後もなお脆弱で、注意を怠れば枯れてしまう。絶え間ない保護と世話を必要とし、土を盛り、水をやり、肥料を与え、常に温度を調節して健全な成長を促す。成長に必要な因縁が全て整って初めて、苗木は次第に大きくなるのである。比丘たちよ、この木の成長の理と同様に、煩悩の結びつきによって縛られた法が最初に現れた時、それに貪着し愛護し守り育てるならば、心中に恩愛貪愛が生じる。貪愛があれば執着心が生じ、執着が続けば三界の世間が形成され、三界の縁が具われば五蘊の身が生まれ、五蘊の身が生じた後には老病死憂悲苦悩などの純粋なる大苦が集積するのである。

仏は小さな木を衆生の煩悩の縛りに喩えられた。煩悩の縛りが生じ始めた時、衆生はそれを断ち滅ぼすどころか、かえって育成し煩悩をますます堅固にし、生滅の輪廻に深く沈んでいく。修行とは常に自心を観照し、煩悩を発見したならば直ちに調伏し滅却すべきであり、養護し育成してはならない。覚りを得ていない者、観察力の不足した者、煩悩に慣れ親しんだ者は、自らの煩悩の縛りに気付き難く、往々にして煩悩に従って行動する。もし常に煩悩に順じるならば、煩悩はますます重くなり、生滅の中に沈淪して深く陥っていく。煩悩が最初に生じた時に覚りも抑制もなければ、煩悩は次第に強まり、一旦根深い煩悩習気が形成されれば、遂には断除することが極めて困難となるのである。

——生如法師の開示
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