衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2020年10月10日    土曜日     第1開示 合計2688開示

眼根が色塵に触れる原理

眼根が色塵に触れることを、外眼根が外色塵に触れることと、内眼根が内色塵に触れることに分ける。内眼根が内色塵に触れることによってのみ、眼識が生まれて色塵を了別することができる。しかし眼根は物質的な色法であり、心ではない。どうして能動的に色塵に触れることができるのか?例えば、目の前に木があり、石があり、草があり、花があるとする。眼根はどうしてただ花だけを選んで触れ、そして眼識はただ花だけを了別して、他の物を了別しないのか?眼根が色塵に触れるのにどれだけの時間がかかり、眼識が花を了別するのにどれだけの時間がかかるのか、何によって決まるのか?

これはすべて意根によって決まる。意根は五陰身の主宰であり、作主者である。もちろん意根は仮の主人であり、虎の威を借る狐のようなもので、背後で本当の主人に頼っているが、それを知らない。意根という仮の主人は、多くの内外の色塵に直面したとき、ただ花を選ぶのは、内心で花を賞賛したいからであり、他に処理すべきことがないので、花を鑑賞したいと思っただけである。もし重要なことがあれば、花を顧みる余裕はない。意根が花を見たいと思い、その花の色塵がすでに内眼根に落ちている。意根が一度決定すれば、眼識が生まれて、眼根・色塵・眼識の三者和合して触が生じ、眼識が花の色塵を了別する。眼識がどれだけの間了別するかは意根が決定する。意根が鑑賞し終えて、もう花を見たくなくなれば、眼識は花の上で消滅し、他の場所で生まれる。

この過程で種子が落ちて、後の世の有が生じる。その中で意根の貪愛と意識の貪愛が如実に記録されて種子となる。眼識にも微細な貪愛があるが、意根と意識に従うだけであって、根本的に自主性はなく、完全に自らの意志ではどうにもならない。

我々が世間の苦から解脱したいと思うならば、自分の行為によって種子を落とさないようにすべきである。特に貪・瞋・癡の種子を落とさないようにすべきである。どうすればよいのか?六識が身口意の行を造作しないように制御し、あるいは身口意の行を少なく造作し、そして造作する際に貪・瞋・癡の煩悩を生じさせないことである。もしどうしても生じさせるならば、清らかな業の種子だけを残すようにする。業の行を少なく造作するかどうかは誰が決めるのか?意根が決めるのである。業の行の源は意根にあり、意根が様々な原因により、様々な心行により、様々な無明によって造作したいと思って初めて、業の行が現れ、業の種子が留まり、後の世の苦が生じるのである。このようにして生死の苦の源が見つかれば、以後どのように世の中を歩むべきかが明らかになる。触を減らし、触の時間を減らす。もし触れざるを得ないならば、触れる際に心行を減らすか滅するようにし、心をできるだけ空に保ち、煩悩の種子を落とさないようにする。このように訓練していけば、解脱の希望が見えてくる。

——生如法師の開示
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