眼根が色塵に触れる場合、外眼根が外色塵に触れる場合と、内眼根が内色塵に触れる場合に分かれます。内眼根が内色塵に触れて初めて、眼識が生じて色塵を了別することができます。しかし眼根は物質的な色法であり、心ではないのに、どうして自ら色塵に触れることができましょうか。例えば目の前に樹木や石、草、花がある場合、眼根はどうしてただ花だけを選んで触れ、眼識は花だけを了別し、他の物体を了別しないのでしょうか。眼根が色塵に触れる時間や、眼識が花を了別する時間は、何によって決まるのでしょうか。
これらはすべて意根によって決定されます。意根は五陰身の主宰者であり、主導する存在です。もちろん意根は偽りの主人に過ぎず、虎の威を借る狐のようなもので、背後に真の主人がいることを知りません。この偽りの主人である意根は、多くの内色塵に向き合う中で花だけを選びます。なぜなら心が花を愛好し、現在他に管理すべき事柄がなく、花を鑑賞したいと思うからです。重要な用事があれば、花に構う余裕はありません。意根が花を見たいと思う時、この花の色塵はもともと内眼根に存在しています。意根が決定すると眼識が生じ、眼根・色塵・眼識の三つが和合して触れることで、眼識は花の色塵を識別します。眼識が了別する時間は意根が決定し、意根が鑑賞に満足すれば花を見ることを止め、眼識は花から消滅し、別の場所に生じます。
この過程で種子が落ち、来世の有が生じます。その中で意根の貪愛と意識の貪愛もありのままに記録され、種子となります。眼識にも微細な貪愛がありますが、意根と意識に随順して初めて貪愛が生じ、根本的に主導権を持たず、完全に自由ではありません。
私たちが世間の苦から解脱しようとするなら、自らの行為が種子、特に貪瞋痴の種子を落とさないようにすべきです。ではどうすればよいでしょうか。六識が身口意の行いを作らないよう制するか、あるいは少なく作るようにし、かつ行う際に貪瞋痴の煩悩を起こさず、清浄な業種を残すことです。少なく行うことは誰が決定するのでしょうか。意根が決定します。業行の源は意根にあり、意根が様々な原因・心行・無明によって行いをなそうとするからこそ、業行が現れ、業種が残存し、来世の苦が生じるのです。こうして生死の苦の源が明らかになれば、今後いかに世間を歩むべきかが明らかになるでしょう。触れることを減らし、触れる時間を短縮し、どうしても触れなければならない時は、触れる際に心行を減らすか滅除し、心をできるだけ空しく保ち、煩悩の種子を落とさないようにします。このように自らを訓練していけば、解脱への希望が生まれるでしょう。
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