衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年10月11日    日曜日     第2 回の開示 合計2692回の開示

直観——意根の覚知の力

スティーブ・ジョブズは「直感を信じなさい。それは思考を超越し、思考が見えないものを見せてくれる」と述べました。ここで言う直感とは意根の覚知であり、思惟とは意識の覚知を指します。意識が覚知できる法は限定的ですが、意根の覚知は無限です。意識は意根の覚知する法の多くを認識できません。

なぜ意根の覚知を直感と呼ぶのでしょうか。意根は如来蔵に依って一切の法を了知するからです。『楞厳経』では、意根が黙して一切の法を容れると表現されています。意根はすべての法を迅速に縁取しますが、法を理解する深さは別の問題です。したがって意根の覚知は極めて迅速で、直接法に対峙し、即座に法を了別します。知るものは知り、知らぬものは知らず、意識の分析推論を経ません。この段階ではまだ意識は生起していないのです。一旦法が意識に落ちると、必ず思惟・分析・推論・判断という過程を経るため、多大な迂回が生じ時間を要します。最終的な結論は真実ではなく、推測の要素が含まれるため、現前の事実を直ちに知るものではありません。

かつて禅師が修行者を導いて悟りを開かせる際、問いを発して相手が目を伏せて思考を巡らせると、禅師は即座に警策を打ち「会得するなら即座にせよ。何を思量しているのか」と諭しました。禅師たちは皆、修行者が直感的に悟りに入り、思惟に堕さないよう導いたのです。問いの現前において悟るなら悟り、悟らぬならそのままで、意識の思惟に堕することを許しませんでした。もし禅師が悟りへ導こうとする際、修行者が延々と考え続けるなら、その思考が始まった瞬間に一喝して帰すべきです。ところが現代では数時間、あるいは数日もかけて「悟り」を得たとする例がありますが、これは一層信憑性に欠けます。答えが偶然合致することはあっても、それが正解であっても真実ではないのです。意識の思惟から生じたものであり、直接見たものでも、自ら証したものでもないからです。

ある人に某事の知識を問いただす際、その人が言葉を濁して考え込むなら、その発言は信用できません。その思考には隠蔽や虚偽が混入しています。例えば北京の様子を思惟・分析・推論・想像を重ね、「北京はかくかくしかじかである」と断定したとしましょう。仮に偶然正解だったとしても、実際に北京を訪れたことがなければ、真実の北京を知る者とは言えません。北京に足を踏み入れた者こそが真実を語り得るのです。その描写は細部に渡り確信に満ち、疑いの余地がありません。これは「我見を断じ三つの束縛を解く」ことに相当し、疑惑を断ち切って確信を得る状態です。一方、北京未踏の者の説明はどれほど詳細でも、心に不安が残り、完全な確信を持てません。これは意識による解悟に相当し、三縛を断ち切れず、疑いを除いて信を生じさせることはできません。

自らが陰で修行を積み、あと一歩という境地に至った時、初めて禅師は悟りへと導くことができます。水が渠を成すが如く、自然に悟りが開けるのです。あるいは因縁の時節を待つ場合、禅師は修行者の状態を観察し、時機到来を見極めます。時至れば機縁を与えて悟入させます。しかし修行が不足していると判断すれば、決して導きは与えません。ところが現代の「悟り」は、修行者が十万八千里も不足しているのに、鉄鉤で無理矢理引き抜こうとします。大根を引き抜くように強引に引っ張れば、結局は根を傷めつけ、後世の果報は極めて恐ろしいものとなります。

——生如法師の開示
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