(一)原文 :かくのごとく我聞けり。一時、仏は王舎城迦蘭陀竹園に住したまえり。その時、世尊は諸比丘に告げたまわく、無明にして教法を聞かぬ凡夫は四大より成る身を厭離し、欲を離れ捨てんとするも、識に対してはそうではない。なぜならば、四大の身には増減あり、取捨あるを見るが故に。しかるに心意識に対しては、愚痴無聞の凡夫は厭離の心を生ぜず、欲を離れ解脱することができない。なぜならば、彼らは長夜この識を惜しみ我と執着し、得たり取ったりして、これこそ我なり、我が所有なり、我は識に在り、識は我に在ると言うが故に。されば愚痴無聞の凡夫は識を厭離し欲を捨てることができないのである。
釈:仏は比丘たちに説かれた。無明で解脱の法を聞かぬ凡夫は、四大から成る色身に対しては厭離心を生じ、色身への欲望を離れ捨てることができるが、識心に対してはそうではない。なぜなら凡夫は四大の身に増減変化ある無常の相を見るゆえ、これを取捨できると考えるからである。
しかし心意識と意根に対しては、無明の凡夫は厭離心を起こせず、欲を離れ解脱できない。なぜなら永劫の生死の長夜において、自らの心識を愛惜し、これを我と執着し、得取して「これが我なり、我が所有なり、我は識に在り、識は我に在る」と考えるからである。ゆえに凡夫は識心を厭離し欲を捨てることができない。
仏が「愚痴無聞凡夫」と説かれるのは事実を述べられたのである。凡夫は正法を聞かず無明に覆われている故に愚痴であり、正聞を得れば智慧が生じる。
色身は生滅変化が顕著なため衆生も看破しやすい。地・水・火・風の四大が和合して成り、地大は堅性(筋肉・骨髄など)、水大は湿性(血液・汗液など)、火大は暖性(体温)、風大は動性(呼吸・気脈)を表す。四大の調和によって身体が形成され、その配合比で物質の性質が定まる。
一切の色法は四大の配合により成立し、宇宙万象も同様である。六塵も四大より成るが、その現れ方により識別が異なる。四大種子は如来蔵に蔵され、これより色身が生起する。身体の胖瘦や器官の変化は、この身が仮の存在である証左である。色身の無常を観じれば厭離心が生じ、もはやこの仮皮囊に執着せず、真実の我でないと悟るのである。
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