(二)しかしながら、愚痴で無聞の凡夫衆生は識心に対し厭離を生じず、離欲もできず、背捨することもできません。その根源はどこにあるのでしょうか。衆生は識の作用を貪著することを好むからです。識の作用は比較的真に迫り人を引きつけるため、絶えず把捉し、自己のものとします。色身の一切の機能作用は識があるからこそ生じるのです。例えば歩行坐臥は、身識がなければ行えず、歩行坐臥は身識の起こす作用です。生命活動は行住坐臥といった事業を離れることができません。それゆえ衆生は貪恋するのです。身識があれば動くことができ、眼識があれば見ることができ、耳識があれば聞くことができ、鼻識があれば香りを嗅ぎ、意識心があれば思考分別・分析判断・推理・妄想を起こします。各識が配合して種々の作用を生じ、意識心と前五識が共に分別し、共に作用します。これらの機能作用は真実在の如く感じられ、生き生きと現れます。これが「我」と「我の所有」であるため、貪恋して捨てられないのです。
識心が無我であることは容易に証せられません。明らかに「我」が一切法を了知していると感じ、非常に真実で、確かに私はここに坐って法を聞き、眼は色を見、確かに接触する一切の物質色法を見ることができます。私は確かに音声を聞くことができ、眼耳鼻舌身の見聞覚知作用が虚妄であるとは認めず、つかんで放しません。意識の種々の作用を虚妄と認めることはさらに難しく、意識は確かに思考し、妄想を起こし、推理し、計画できると感じます。それゆえ衆生は識心を虚妄と見なすことができず、この関門を突破しなければ大小の果を証することはできません。
それゆえ仏は説かれました:愚痴無聞の凡夫は私たちの四大色身に対しては厭離を生じ、離欲もでき、背捨することもできます。しかし自らの識心に対しては離欲できず、厭離を生じず、背捨することができません。事々に自らの心に順い、事々に自らの心に従って行動し、自らの心を離欲することができず、自らの心を愛著します。この識心が確かにこれらの機能作用を有しているからです。
衆生は生生世世、生死の長夜において保惜して我に係わり、常に己の意に順い、自らを愛護し、自らの識心を保惜します。私が何を得るか、何を所有するか、何を占有するか、これらは全てこの識心の意欲です。この識心の機能作用を「我」とし、真実存在で永遠不滅の自己と見なします。実際、識心は幾つかの状況下で滅します。例えば法を聞いている時、聞いている内に眠りに落ち、後で何を説かれたか分からなくなります。この時識心は滅しています。夢のない睡眠時、六識心も滅しています。目覚めた後、これらの識心は再び現起します。滅あり生あり、生滅を繰り返し、識心は常に生滅の過程で変化しています。
私たちの第八識の機能作用は常にそのように存在し、変化せず、外縁に依る必要がなく、機能作用も変化しません。第八識は常に一切法を生じ、一切法を変現し、誰もこれを阻むことができません。それが真実です。入定していようと眠っていようと、いかなる状況下でも常に存在し、常にその機能体性作用を有しています。前六識はそうではなく、常に生滅変化するのです。
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