衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年10月16日    金曜日     第2 回の開示 合計2709回の開示

六七識が如来蔵に転依成功後の印

如来蔵を証得することが前提であり、転依の成功は結果である。前提と結果の間には一阿僧祇劫に近い長い時間を経る必要がある。悟りを開いた後は、如来蔵が五蘊の身の中で作動する様子を眼前に観察することができ、別相智を発起して後は智慧が次第に深微となり、如来蔵に対する観察はますます精緻を極める。観察を重ねる中で五蘊がますます実体のないものであることに気付き、五蘊の身への執着が次第に薄れていく。同時に、如来蔵の作動における清浄無為の性質と、我無く煩悩なき有為の性質をも観察できるようになる。

如来蔵の清浄無為の性質と煩悩なき有為の性質はいずれも極めて高尚で純粋な優れた特質であり、第六・第七識は知らず識らず感化され陶冶される。心性は気付かぬうちに変化を遂げ、ますます如来蔵の心性に近づいていく。これが転依如来蔵と称される所以である。如来蔵に依りながら自らの心性を転換しているとはいえ、未だ量変から質変に至っておらず、量の累積が本質的・実際的な心性の転換に足るほどではないため、如来蔵を依止することは未だ成功とは言えない。

転依成功の指標は何か。その主たる指標は心性の転換にあり、煩悩が消滅し、心地が清浄となり、戒・定・慧を具備し、心量が広大となり、誓願が宏大深遠となり、私心無く畏れ無く、我無く為す無き状態にある。戒は菩薩戒の円満な行持に体現され、有相戒は意識で抑制・制御することなく自然に全てを守持し、全ての行為が自然に戒法に適う。心地が転換すれば、身口意の行いが自然に清浄となり、やがて無相戒の行持へと自然に移行する。心は万物の主であり、心が清浄ならば全てが清浄となる。心地が清浄で煩悩なき者こそ無相戒を行持する能力と資格を有し、未だ煩悩を断じていない者は無相戒を受持できぬ。心が自律できないからである。

禅定においては初禅以上の禅定から四禅定までを具足せねばならない。初禅定を具足して初めて心地の清浄無煩悩を保証し、深甚な智慧を生起させ得る。初禅定無くしては煩悩必ず現行し、有相戒すら守持を保証できず、まして無相戒を受持する資格と能力は無い。心地が清浄でなく煩悩が深重なるが故である。智慧の面では第六・第七識が転識得智を遂げ、深甚な唯識種智を具え、一切の法が唯識のみで他無きことを了知する。

心地の転依に成功した菩薩は、如来蔵の如く有為かつ無為であり、有為の時は私無く、無為の時は我無し。有為無為・私無き我無きが完全に融合し、矛盾すること無く結合する。禅定と智慧が深甚なるが故に、心は空しく相無く、相無ければ為す無く、世俗の法を貪らず、その心は俗に背き、為す所無し。無相・無願・無作である。またその心は衆生を悲憫し、弘法利生を私利のためでなく、仏恩に報い、仏種を継承せんがために、十大無尽の誓願を発し、如来の家業を継承し、辺際無き衆生を広く度し、尽未来際に至るまで永く断絶せしめない。

——生如法師の開示
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