多くの法は実は学ぶ必要がありません。仏法を学ぶことは理論家や議論家になることではなく、雑学者や万事通になることでもありません。真剣に実修し探究する中で、類推して理解が広がり、法義が少しずつ拡散して融通無碍となります。元来知らなかった法も、深く思索することを通じて、一つずつ貫通していくのです。貫通した後の法は自らのものとなり、学んだものではなくなります。今生と来世で忘れようとしても忘れられず、口を開けば自然に出てきて、考える必要がありません。智慧深き人々は皆、自ら法を証し、法を探究するのであり、他人の法を学ぶのではありません。学んだものは自らのものではなく、死後には忘れ去られ、来世で改めて学び直さねばなりません。多くの人々が学識豊かな様子で、法義を提起されれば流暢に語り、弁舌さわやかな様子ですが、一つも法義を通達しておらず、一つも実証していません。知識が豊富だからといって真に法を理解しているわけではなく、真の智慧を表すものではありません。意識が消滅すれば、何も残らないのです。
大乗と小乗の法は、多聞の段階において、おおよその輪郭をはっきりさせ、脈絡を明らかにすれば十分です。同じような法をどこまでも学び続ける必要はなく、どれだけ学んでも智慧は増えません。真の智慧は探究を通じて生まれるものです。一点を探究すれば一点の智慧が生じ、同時に類推してより多くの法を証得します。少しずつ繋がり合い、数多くの法を理解するに至ります。そしてそれは真の理解であり、智慧は絶えず増長し、来世へと持ち越すことができるのです。
3
+1