衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2020年10月18日    日曜日     第2開示 合計2716開示

断我見(satkāya-dṛṣṭi-prahāṇa)と参禅の次第の問題

先に我見を断ってから禅を参ずるのか、それとも直接禅を参じて証悟を求めるのか、これについては定説がなく、根器によって判断する必要があります。法に定法はなく、人によって異なるからです。大多数の人はまず我見を断つことを求めるべきで、偽の我をはっきりと認識しておけば、その後の参禅において真偽を見分けられず、偽を真とすることはなくなります。もし根器の比較的良い人で、我見の煩悩が比較的軽微であり、禅定も非常に優れていて、意識の思惟に陥らないのであれば、直接禅を参ずることができ、参禅の過程においてまず我見を断り、その後真を証することができます。というのも、参禅とは五陰の身の中において参証することであり、五陰十八界を離れることはできず、参究の過程において、五陰の身の生滅不実の性質を一つ一つはっきりと見分けることもでき、それによって我見を断除することができるからです。

古の禅師たちの悟道はみなこのようでしたが、解悟者がいなかったとは保証できません。禅宗一千七百則の公案の中で、すべてが証悟であったわけではなく、定力が少し劣っていれば、意識の功德作用が意根より強くなり、それが解悟となります。真心を見るといってもぼんやりと曖昧で、ただ大まかな影にすぎず、観行の智慧は起こらず、煩悩は減らず、我見も断除できません。かえって頓悟によって道業を損ない、速さを求めてかえって達せず、思わぬ結果に終わってしまいます。

現代人の禅定力は、古の時代の人々に比べて全般的に大きく劣っており、意識の心の思惟を容易に抑え込むことができず、意根の作用は弱々しいものとなり、証悟は非常に難しく、我見を断つことも難しいのです。理論を知ることが多ければ、かえって解悟のほうが容易になります。だからこそ、私たちはできるだけまず五陰の無我を観行し、その後に禅を参ずるようにすべきです。そのほうがはるかに確実です。

——生如法師の開示
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