諸仏は皆、四禅定において成道されます。一般の者は二禅に至ると、もはや参禅することができなくなります。それはこの時、意識が極めて微弱となり、意根の思惟考量を補助できず、ただ意根単独の思量作用に頼らざるを得ないためです。では諸仏が四禅定において悟りを開かれる時、それも極めて深遠なる大悟徹悟究竟悟、法の根源を貫く悟りにおいて、意識の補助無くして、意根は如何なる智慧を具えるべきでしょうか。
二禅以上では法義を参究できないというのは一般者に向けた説き方で、実際には二禅及びより高位の禅定においても思考参究は可能であり、入道することができます。では如何にして二禅以上の定中で思量参究するのでしょうか。
それには入定前に、意根が極めて深い疑情を具え、心に念々と疑情が満ち、他の思想念頭が無く、他の法を遮断しておく必要があります。これにより一意専心に一法に縁起し、深く疑い、深く参究し、ひたすら法義を明らかにしようと志すのです。このようにすれば、座禅に入り足を組んだ瞬間、意識は明らかな心念を滅し、心は清浄となり、意根の思量を妨げず、五識は為す事無くして滅び、二禅定が現前します。すると意根は一心に参究を続けます。因縁が現起する時、意根に雑念が生じ、意識に念頭を生起させると、五識が現れ、二禅定から出ることとなります。
意根が二禅から四禅定の中で思量参究する際には、五遍行を具足するのみならず、五別境心所法も具足せねばなりません。その勝解力と慧力は並々ならぬ強さ、すなわち極めて強大なるものでなければ悟道できず、法義を参究して通達し、三昧力を生じ、三昧の中に住するに至ります。定慧・勝解力・念力のいずれかが欠けても、悟道は叶いません。意根の五別境心所法が強大なる者は、並の者ではなく、聖人でなければ成し得ず、凡夫や賢者は精進修持に努め、意根の五別境心所法を強め、道力を更に強大ならしめ、修道が迅速に進むよう努力すべきです。
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