(六)原文 :また、比丘が苦を正しく尽くし、究竟の苦の辺際に至らんと観察思惟する時、名色を思量す。何を因とし、何を集とし、何より生じ、何に触れてか。彼の名色は識を因とし、識を集とし、識より生じ、識に触るることを知る。彼の識が滅尽して余すところ無き時、名色もまた滅す。彼の乗ずる識滅の道跡を如実に知り、その向かう次第の法を修習する。これを比丘が正しく苦を尽くし究竟の苦の辺際に至ると名づく。すなわち識の滅尽と説く。
釈:さらに、比丘が苦を正しく尽くし究竟の苦の辺際に達せんと観察思惟するには、名色がどのような因縁によって生じたかを、どのような法の集起によって生じたかを、どのような法の出生によって名色が生じたかを、どのような法の接触によって名色が生じたかを思量しなければならない。観察思惟を重ねれば、名色の出生が六識の因縁によって生じ、六識の集起によって生じ、六識の出生によって後世の名色が引き起こされ、六識の接触によって後世の名色が生じることが明らかとなる。六識が滅尽して余すところ無ければ、名色もまた滅尽する。比丘たちは六識を滅尽する道跡を如実に了知し、向道の法と次第の助道の法を修習すべきである。これを比丘が正しく苦を尽くし究竟の苦の辺際に至ると称し、すなわち六識を滅尽する法と説くのである。
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