(七)復に、比丘は苦を正しく尽くし究竟の苦の辺際に至ることを思惟し観察する時、かの識を思量す。何を因とし何を集とし、何より生じ何に触れてか。識行の因となる行の集まり、行の生じる行の触れることを知る。諸の福行を作れば善識生じ、諸の不福不善行を作れば不善識生じ、無所有行を作れば無所有識生ず。これ即ちかの識行の因となる行の集まり、行の生じる行の触れることなり。かの行が余すところなく滅せんことを欲すれば、識もまた滅す。かの乗ずる所の行滅の道跡を如実に知り、彼の向次法を修習す。これを比丘の正しく苦を尽くさんと向い究竟の苦の辺際に至るとなす。所謂く行の滅なり。
釈して曰く、復に比丘が苦を正しく尽くし究竟の苦の辺際に至ることを思惟観察する時、六識は何の因縁によって生じるかを思量する。いかなる法が集まれば六識現前し、いかなる法が生じれば六識生じ、いかなる法が触れれば六識が出生するかを観察し思量して後、六識の生起は意根の心行の因縁によることを知る。即ち意根の心行が集まれば六識が出生し、意根の心行が生じれば六識が生じ、意根の心行が触れれば六識が出生する。
もし意根が福行善行を造作せんと欲すれば、善なる六識が出生し、意根が不福不善行を造作せんと欲すれば不善なる六識が出生し、意根が不善不悪行を造作せんと欲すれば不善不悪なる六識が出生す。これらを行の因縁行の集まりが六識の出生を決定し、行の生じ行の触れることが六識の出生を導くという。もし意根の心行が滅尽し再び一絲の心行もなきに至れば、六識もまた随って滅尽す。比丘らの修行する所の行滅の道は、如実に了知すべきなり。即ち向道の法と助道の法を修習すべし。故に行滅こそ比丘が正しく苦を尽くさんと向い究竟の苦の辺際に至る修行の要諦なり。
意根の心行が絶え間なければ、六識心は不断に生起し、分別造作を続け、業種が残留すれば未来世の名色あり。もし意根に何らの心行もなきに至れば、六識は出生せず、業行を造作せず、業種の残留なく、未来世の名色もなし。名色が出生すれば六入あり、六入あれば触あり、触あれば受あり、受あれば貪愛あり、貪愛あれば執取あり、三界の有が現前し五陰身が出生す。ここより生命は断絶なく、生老病死憂悲苦悩が再び循環す。これ皆意根の心行が絶えざるが故の結果なり。
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