衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年10月29日    木曜日     第3 回の開示 合計2747回の開示

法に依らず人に依らず

法に依るとは、事実と真実に拠ることであり、これは極めて困難なことである。智慧が不足しているために事実を証得し検証することができず、説法が事実と矛盾しないようにすることは極めて重要であり、仏説と矛盾しないことが最も肝要である。実証とは、事実を証得し、事実と合致することを指し、これが修行の最も重要な点である。いわゆる証拠とは自ら検証を経て、確固たるものとなった後に初めて信従できるものであり、検証できない、あるいは検証能力の及ばない法は、依り所とする法や事実とはなり得ない。

人に依るとは、名声ある者を主とし、人によって法の是非を確立することで、純粋に法理法義と事実の観点から法の是非を判定するものではない。もし人名を伏せた場合、法の大多数に対して拠り所を失い、選択判断ができなくなり、この過失は甚大である。仏法を学び修行するには法と事実に依らねばならず、人に依ってはならない。仏陀以外の者は誰も完全に依従すべきではなく、そうでなければ仏陀が臨終に遺した「法に依り人に依らず」という諄い教えが空文となり、我々は仏陀の教導と深慮遠謀に背くことになる。

仏陀がもしある者の説くところを如何様に印証していない場合、あるいは完全に正しいと保証していない場合は、慎重に選択判定すべきである。ただ仏陀のみが完全に正しく説法され、完全に依止し得る方であり、弥勒妙覚菩薩を含む他の者たちは完全に正しくない。全ての衆生、全ての菩薩には多かれ少なかれ欠点と誤謬があり、智慧が不十分で確たる証拠がない時は軽々しく論評すべきではない。智慧ある時は自らの現量観行を示し、問題を説明すべきである。

また如何なる者を論評する場合でも、証拠が充分かつ確実でなければならず、具体的に一二三四五と指摘し、問題を明快に論じなければならない。もしそれができなければ、現量観行がなく証拠がないということであるから、背後で密かに修行に励み、自らの智慧の水準を高め、観行智を向上させるべきである。もし証量がなく現量観行の智慧がない場合は沈黙を選び、評価や論評を控えるべきである。やむを得ず発言する場合、証拠がないために生じる果報も大きく、誤った論評の果報も甚大である。

もし自ら現量観行ができない場合は、名声ある者の言説に依らざるを得ないが、これは人に依るもので法に依るものではない。多くの者が名声と権威のみを信じるのは止むを得ないことであり、智慧で弁別できないため名声と権威に依るしかないのである。もし名声ある権威者の法義に誤謬があれば、後世の者は永遠にその誤謬を引き継がざるを得ず、誰も法義を補完修正することができず、仏法はこのようにして停滞してしまう。世俗の科学技術界や学術界は決して人に依らず、科学技術は常に飛躍的に発展し日進月歩である。しかし仏教界で行われているこの人に依る規則のため、数千年にわたり仏教は発展することができないのである。

——生如法師の開示
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