もし実証があれば、現量観行できるので、諸法の事実真相に依拠し、いかなる個人にも依らない。ただ事実真相こそ真実の法であり、究竟の法である。しかし事実真相は一般人の知り得る所ではなく、一般人は人の言説に依るほかない。しかし人の言説には全て欠漏と不足があり、仏の言説でさえ表面的な意味(語)と究竟的な意味(義)がある。一般人がこれを明確にできなければ、究竟義に依ることはできない。
要するに、実証があって初めて一部の事実に依ることができ、将来次第に全ての事実真相に依拠できるようになる。大智者は必ずこのようにし、諸仏は全て事実真相に依拠する。特に最初の仏である威音王仏は全て実証された真理に依拠し、依るべき人はいなかった。我々はやはり禅定を修め、定中の観行によって実証を目指すべきである。人に依ることは畢竟信頼できず、仏は弟子に「汝の意は信ずべからず、阿羅漢果を証して初めて汝の意を信ずべし」と戒められた。たとえ仏経を引用しても必ずしも正しいとは限らない。もし菩薩の論である『瑜伽師地論』が仏経と一致しないならば、仏経を基準とすべきである。しかし仏経も段階があり、義に依り語に依らざることは極めて難しく、実証がなければ真実の義を理解しがたい。仏が臨終時に遺した四つの依(四依)を、当時どのような心境で説かれたか、どれほど深い憂いを抱いておられたかが窺える。
もし仏がどの菩薩がどのような証量を有するかを印可しておらず、完全に百パーセント依止できる存在を示されていないならば、完全に百パーセント依止することはできない。菩薩は仏の智慧を具足しておらず、その智慧には依然として欠漏がある。弥勒菩薩でさえかつて仏より智慧不足を叱責されたことがある。
全ての菩薩の説法は依止できるが、百パーセント依止することはできない。菩薩の論には必ず何らかの欠漏と不足があり、法眼なき者には観察できない。たとえ『瑜伽師地論』であっても、弥勒菩薩自らが人間界に来て説いたものではなく、中間に菩薩の口を経由して転述されたものである。この菩薩の証量が極めて高くなければ、その転述にも誤りが生じる。故に一つの言葉が十人に転述されれば、十の意味が生じる可能性がある。よって学ぶ者は皆、観行に心を注ぎ我見を断じ、さらに明心見性を目指すことが最も穏当である。
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