衆生は無量劫の修行過程において、その業障が少しずつ消滅し、業が尽きて初めて仏道を成就します。その業の消滅は主に自己の修行によって無明を滅し、心を改めることによってなされますが、最初の段階では衆生の無明が重く、心力が弱いため、大部分の業障は仏菩薩の加護によって消去され、負われるのです。各衆生の業は、もし仏菩薩が背負い消去してくださらなければ、誰も悟りを開き成仏することはできません。仏菩薩が衆生の業を消し、業を了え、業を背負う方法は極めて多いのですが、衆生は皆気付かず知らず、時には仏菩薩を誹謗することさえあります。衆生が無知である時、仏菩薩の恩徳の大きさを理解することはできないのです。
衆生の因果とは六道輪廻における生老病死憂悲苦悩ですが、各衆生が仏法に遇う時、生死の業と苦受は次第に軽減され、遂には三悪道の業を断じ、六道輪廻の業までも消滅するに至ります。しかしながら、衆生が仏法に縁を得るのは、決して衆生自身の福徳や功徳によるものではなく、全て仏菩薩の恩徳によるものであることを忘れてはなりません。仏菩薩は日々誓願を発し、その願力は三悪道の衆生に遍く及びます。三悪道の衆生は無自覚のうちに恩沢を受け、福徳が日増しに増大し、遂には仏法に遇い、無量劫にわたる仏法修行を開始するのです。こうして業障は徐々に消滅し、最終的に成仏するに至るまで、全て仏菩薩の恩徳によるものであり、成仏せずして誰も仏菩薩の恩に報いることはできません。
仏菩薩の加護と誓願は形なく、衆生のために無数の業障を消すこともまた形のないもので、目に見えず触れることもできません。衆生が無知である時は感知することもできませんが、実際にはその力は計り知れません。衆生は恩を忘れるのではなく、根本的に恩義を知らないのです。それどころか根拠なく様々に誹謗するにもかかわらず、仏菩薩は決して気に留められません。誰が無知で愚痴な衆生を咎めましょうか。仏菩薩がどれほど衆生の業を背負い、どれほど多くの仏法を説き、どれほど深遠な教えを示されようとも、無知な衆生は仏菩薩に凡夫菩薩の名号を冠することを許さないのです。この罪障は深いとは言えませんか。
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