(一)原文:如是我闻。一时。佛住王舍城迦兰陀竹园。尔时世尊告异比丘。我已度疑。离于犹豫。拔邪见刺。不复退转。心无所著故。何处有我。为彼比丘说法。为彼比丘说贤圣出世空相应。缘起随顺法。所谓有是事故是事有。是事有故是事起。所谓缘无明行。缘行识。缘识名色。缘名色六入处。缘六入处触。缘触受。缘受爱。缘爱取。缘取有。缘有生。缘生老死忧悲恼苦,如是如是纯大苦聚集。乃至如是纯大苦聚灭。
解釈:世尊は他から来た一人の比丘に告げて言われた。私はすでに疑いを度(わた)し、解脱の法に対する躊躇いを離れ、邪見の刺を抜き去った。私は菩提道に退転することがなく、心に住着するところがないがゆえに、どこに我があると見なすこともなく、あの比丘たちのために法を説き、あの比丘たちのために賢聖たちが証得した出世間の空に相応する縁起随順の法を説くのである。縁起法とは、この事があるがゆえに彼の事が現れ、この事の存在によって彼の事が生じ出すというものである。
これがいわゆる十二因縁法である。無明があるがゆえに意根の心行が生じ、意根の心行があるがゆえに六識が生じ、六識の身口意行があるがゆえに後世の名色が生じ、名色があるがゆえに六入が生じ、六入があるがゆえに触が生じ、触があるがゆえに受が生じ、受があるがゆえに愛が生じ、愛があるがゆえに取が生じ、取があるがゆえに有が生じ、有があるがゆえに生が生じ、生があれば老病死・憂悲苦悩 (śoka-parideva-duḥkha-daurmanasyopāyāsa)があり、その後、生死の大苦が集まってくる。さらには修行によって、生死の大苦聚が消滅するのである。
度疑という意味は、仏がすでに無明を断じ尽くし、一切の疑問がなくなり、心の中で一切の法を非常に確かに了知し、世間の諸々の一切の法がどのような道理であるのか、これらの法の実相が何であるのかを知っているということである。ところが衆生はまだ度疑しておらず、衆生の疑惑はあまりに多く、分からないことがあまりに多いため、事相の上でことごとく真面目になりたがる。これはすべて無明に由来する。無明の範囲は非常に広く、衆生が知らないことは数え切れないほどであり、もし数量で計算するならば、衆生の無明は十方世界の塵埃ほどにも多いのである。
無明には三種ある。すなわち一念無明、無始無明、塵沙無明である。たとえ開悟した後であっても、成仏への道の上で分からないことがまだたくさんあり、塵や砂のように多いのである。等覚菩薩でさえまだ一念無明が破れておらず、破り尽くしてこそ成仏できる。長く無明の中にあるということは、長く暗黒の中にあるということである。最も根本的な邪見は我見 (satkāya-dṛṣṭi)であり、我があるがゆえに、すべての煩悩がことごとくやって来る。一切の邪見はすべて我に由来するのであり、我見 (satkāya-dṛṣṭi)を断じれば、その他の邪見も一つ一つそれに伴って断たれていく。世尊は我々のために邪見の刺を抜かれたのであり、一切の正しくない見解をことごとく断じ尽くせば、無明もすべて断じ尽くされる。無明があれば邪見があり、開悟した後にもなお邪見があり、成仏して初めて邪見がなくなるのである。
0
+1