潙山が仰山に問う、「涅槃経四十巻、多少は仏説、多少は魔説か」。仰山曰く、「総て魔説なり」。潙山曰く、「以後人子を奈何すること無からん」。仰山曰く、「慧寂即ち一期の事、行履何れの処にか在る」。潙山曰く、「只だ子の眼正しきを貴ぶ、子の行履を説かず」。
仰山禅師が師の問いに答えた言葉は奇特であった。涅槃経四十巻は全て魔の説であって仏の説ではないと述べた。何故仏の説ではないか。真仏は口無くして説法せず、口で説法するものは真仏に随うが如く、幻化は真仏に非ず、仮の仏に過ぎぬからである。師の潙山禅師はこれを聞き大いに賞賛して言う、「今後真に汝に対処できる者はいない。汝の智慧は群を抜いている」と。仰山は言う、「私は今、知見は具足したが、真の菩薩行履は如何に体現すべきか」。潙山曰く、「只だ汝の見地が純正であれば、菩薩が持つべき行履は建立されぬ憂いなし」。
仰山は既に明心見性し、般若智慧を具足していた。しかし彼は速やかに菩薩の行持を具足し、自身の身口意の行いを完成させ、菩薩の全ての規範に符合し、真の名実相伴う菩薩となることを志した。潙山は、真に明心見性すれば、その行持は次第に転換し、以前の身口意の行いは徐々に清浄となり、煩悩の断除は自然の成り行きであり、慈悲喜捨の菩薩心行は次第に具足すると考えた。潙山の見解は極めて正しいが、「眼正しき」とは何を指すか。意根の眼が正しからざれば、菩薩の行履は正しきを得ず、唯だ意根の眼が正しければ、身口意は自然と正道を行じ、無明煩悩を断じ切れぬ憂いなく、菩薩の慈悲喜捨の心行を具足せしむ。事実が証明するように、仰山禅師は後に禅宗の三関を突破し、初地に入り、夢中に弥勒内院に至り弥勒菩薩の前で説法を行った。
古人の修行は真修実証であり、明心見性は真実の明心であって毫も曖昧さがなく、一点の偽りも交えなかった。明心後は智慧が滾々と湧き出で、行持も益々清浄となり、菩薩の規範に符合し、衆生の依止処となった。今は様相が異なり、偽菩薩が空を飛び交い、身口意は人々の唾棄すべき対象となり、世間の凡人よりも凡人らしく、真の菩薩とは天地の差がある。故に偽りの明心を称する偽菩薩は、何を以て行履を語る必要があろうか。
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