(三)阿羅漢たちが修行を究めると、一切の執着を離れ、愛が尽き、欲が無くなり、寂滅し涅槃に入る。心が一切の法に執取せず、一切の法に固執せず、更なる法を望まなくなった状態が「取滅」である。取滅が成就すれば貪愛も尽き、欲も無くなる。三界の世に対するいかなる思惑や追求も消え失せる。もしなお思惑や意欲が残れば、意根の執着が断たれず、来世が生じ、愛が尽きず欲が離れないため寂滅涅槃を証得できない。故に欲が無くなって初めて寂滅に至り、寂滅即ち涅槃となる。この時五蘊が悉く滅尽し、生住異滅の無い涅槃の心である第八識のみが残る。これが涅槃の境界である。
四聖諦の法と十二因縁の法は小乗の有為法であり、小乗の有為法は無為法である阿頼耶識を離れて存在しない。仏が説かれたように、一切の法の生じることは有為、住することも有為、変異することも有為、滅することも有為である。宇宙の大千世界は全て生・住・異・滅を有し、悉く有為法である。無為とは生じず住せず、異ならず滅せざることをいう。どの法がそうか。ただ第八識のみがこのようである。身口意の行いという有為法の中に無為法が含まれており、さもなければ有為法も現れ得ない。有為と無為は同時に運行し、有為が滅び残る無為こそが寂滅涅槃である。
有為あるところに苦あり、一切の苦は結果である。結果あれば必ず因あり、身口意の行いがその因である。因が造作されれば、果は未来世に現れる可能性があり、あるいは現世に現れることもある。縁が具足すれば果は現れ、縁が具足しなければ因として種子となり将来に結果をもたらす。修行とは因を植えることに他ならない。果がいつ現れるかは、縁がいつ具足するかによる。悟りを開く縁とは何か。菩薩の六波羅蜜であり、六波羅蜜を円満すれば明心の果が現れる。速やかに果を得ようとするなら、速やかに六波羅蜜の縁を具足せよ。六波羅蜜の修行を疎かにすれば明心の縁は具足せず、何生何世に悟るか定まらない。
ある人々は修行の果を命終時に得ようとし、臨終に西方極楽世界へ往生することを願う。しかし命終時に往生の縁が具足する保証は無く、仏が保証を与えられない限り、誰の保証も無意味である。現世に生きながら往生の縁を具足し、生きている内に極楽世界が自らの三昧に現れ、あるいは阿弥陀仏が三昧に現前するならば、この三昧力と仏の加持力によって初めて命終時の往生が保証されよう。
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