衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2020年11月04日    水曜日     第2 回の開示 合計2763回の開示

意根が内にアーラヤ識を執着して我とするとはどういうことですか?

この意味は、意根が阿頼耶識の機能作用を自己の機能作用として執着し、これが阿頼耶識の機能作用であることを知らず、阿頼耶識の見る法に随って、これらの法を全て我及び我のものと認め、これが阿頼耶識から出生し、阿頼耶識に帰属し、その本質が全て阿頼耶識性であることを悟らないことを指します。よって阿頼耶識の機能作用に愛着し、これを喜び、楽しみ、執着するのです。意根はこれらの執着と貪愛によって繋縛され、解脱を得ず、遂には輪廻を捨離できなくなります。意根は根本的に阿頼耶識が何たる法かを識別しないため、阿頼耶識そのものを執着するのではなく、阿頼耶識が生じる全ての機能作用を自己の機能と誤認し、全ての法を自己の所有と錯覚することによって執着が生じるのです。

阿頼耶識の機能作用とは何か。五蘊十八界の運用作業、一切世俗法の機能作用に他なりません。意根はこれらの機能作用を我及び我のものと見做し、この誤解は阿頼耶識を証得して後、初めて徐々に解消され始めます。意根が阿頼耶識を証得する時、意識と共に観察し、五蘊十八界の機能作用が全て阿頼耶識から出生し、阿頼耶識の機能作用であって、意根たる我の機能作用ではないことを知り、徐々に我執を断じます。更に相続して他の一切法が全て阿頼耶識の機能作用であり、意根たる我の機能作用ではないことを証得すれば、次第に法執を断じ、無明を漸く断尽し、無上涅槃を成じ、大解脱を得るのです。

畜生道の衆生も我執と法執を有していますが、どうして阿頼耶識の存在を知り得ましょうか。ただ阿頼耶識が生じる那些の機能作用や出生する那些の法を自己のものと見做しているに過ぎません。意根が執着するのは阿頼耶識が出生する那些の法であって、どうして阿頼耶識そのものを執着するということがありましょうか。

法を学ぶとは文字を分解することではなく、字面だけを巡らせることなく、その甚深なる義理と究竟の義を深く観行しなければなりません。多くの人々は法を学ぶ際、非常に表面的な意識思考に留まり、決して禅定によって深く思考観行しようとしません。故にこれほど多くの人々が小乗の苦・空・無常・無我を修学しながら、最終的に「五蘊は第八識に非ず、第八識と異ならず」という結論に至るのです。論理も通じていないのに、どうして凡夫が五蘊を第八識とするような観念を持ち得ましょうか。この観念を持つ者は既に凡夫ではなく、もはや我見を観行して断じ、第八識を実証する必要など全くないのです。

——生如法師の開示
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