禅定がない、あるいは禅定を欠いた観行や参禅は、根本的に意識から離れることができず、ましてや意識の分析や推論、想像や推測を離れることはできません。これは過去の禅宗の祖師方が最も忌み嫌い、反対した参禅の方式であり、祖師方が常に唾棄し忌避した情念や思考による解釈です。よって心意識を離れて参禅し、その結果をより究竟的で現量的なものとするためには、禅定を修め、未到地定を具足させた上で、仏法を参究観行しなければなりません。このように意根を多く用いれば、意識の解釈ではなく実証が保証されるのです。
観行や参禅において、意識を多用すればするほどその効果は減じ、期待に沿わず、役に立たなくなります。意根を多く用いれば用いるほど、その作用は増大し、爆発力が増し、持続力も強まり、悟りの境地は深遠に至り、三昧力は増大し、智慧は鋭くなり、煩悩は軽減され、心は解脱へと向かうのです。
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