衆生が布施を行えば福を得ますが、布施をする心の在り方によって得られる福は異なります。ここで言う心の在り方とは、有所得の心・自己中心的な心・求める心・貪欲な心などがあるかどうかを指します。もしこのような心の状態や考え方で布施を行えば、ただ福報を得るだけで、福德を得ることはできません。徳とは心の行いが清浄であり、自我が無く私心がなく、見返りを求めず、何も求めない、あるいは個人の利益や欲望のために求めず、不純な目的が無いことを表します。清らかな心こそが徳であり、欲望の無い清浄な心こそが徳なのです。このような心で布施を行って初めて福德を得ることができ、道を成就することができるのです。
徳があれば波羅蜜が生じ、智慧の彼岸に至ることができます。徳がなければ波羅蜜が無く、智慧の彼岸に至れず、修行は成就しません。求める心は非常に狭く、得る福も当然小さくなります。求めない心は非常に広大で、得る福も大きく、徳も大きくなります。
従って布施を行う際には、できるだけ求める心や貪欲、功利的な心を抱かないようにすべきです。何事を行うにしても、貪り求める心や貪欲、私心、不純な目的、清らかでない心があれば、功徳と呼べるものはありません。求める心は非常に狭く、得る福も当然小さくなります。求めない心は非常に広大で、得る福も大きく、徳も大きくなります。
常に布施行を修める者は、静かに心を落ち着けて自らを省みる必要があります。布施によって福を修める目的は何か?道業のためだけか、あるいは衆生のためだけか、その純粋さを確認しなければなりません。もし貪欲が混ざっていることに気付けば、絶えず自らの心を清浄にし、汚れを清め、覆いを取り除かなければなりません。なぜならこのような努力による布施はただ福報を得るだけで波羅蜜を得られず、福報が尽きれば何も残らず、徳は存在せず、道業において進歩できないからです。逆に、求めず得ようとしない心で、利他の心をもって布施を行い福を修めれば、福德を得ることができます。福だけでなく徳も得られ、その徳は永遠に自らに属して消えることなく、道業を成就する資本と資糧となるのです。
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